ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る この旅のtopへ戻る 前ページに戻る count
KLMお得な運賃

Les Gorges du Guilギル峡谷/Combe du Queyras ケーラス渓谷

この地を進軍した状況ハンニバルは?

ギル川とデュランス川の合流・渓谷の街。古代から交通の要地。象を用いた戦闘の歴史も?・・

   【フランス:プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方(オート=アルプ(05)県)】  [北村 峠一].(Kitamura)      



【赤太線:??過去にGuillestreギレストル付近を走ったルート】

●Les Gorges du Guilギル峡谷/Combe du Queyrasケーラス渓谷
・river Guilギル川は、モンヴィソ山からの荒れた川、その急流が作り上げたケーラス渓谷・・急斜面、断崖、壮大で厳粛な風景。
Combe du Queyras ケーラス渓谷は、ギル川が削ったLes Gorges du Guil 古代ローマ以前からの交通の要地です

---
〜★Queyrasケーラス渓谷〜 ギレストリー出た所がいちばん渓谷が凄い・・ ハンニバル軍が襲われた場所だろう
・・その先は小さなダムが作られている。  Chateau-Queyrasシャトー・ケーラス城砦〜<45km1H>〜 直前の村の先で大工事。30分に7分のみの交互通行
---
Domitiaドミティア街道:BC500年ころにはすでにルートがあった。


●Les Gorges du Guilギル峡谷/Combe du Queyras ケーラス渓谷
 ○https://provence-alpes-cotedazur.com/en/get-inspired/natural-areas/gorges-of-the-guil/【ギルの峡谷】
 ○https://lequeyras.com【ギル渓谷】
ギュイル渓谷は、地元の人々や旅行者にとって、ケイラスへの主要ルートとして今も利用されています。1855 年に建設されたヴィステと呼ばれる道路は、非常に曲がりくねっており、「トゥルニケット」と呼ばれる一連のジグザグ道でした。1905 年から 1911 年にかけて建設された現在の道路は、以前のルートに代わるもので、アクセスしやすくなっています。
印象的な断崖がそびえるギル渓谷の道からは、眼下に広がる激しい急流の息を呑むような眺めが楽しめます。20 世紀半ばには、ドライバーの快適性と安全性を向上させるために、いくつかのトンネルが掘られました。渓谷の下流には、水力発電ダムに水を供給する小さな貯水池もあります。
ギル渓谷の上流にあるケラス砦は、中世に複数の王国が交わるこの山岳地帯の安全を確保するために建設されました。この砦は、不可侵性を確保するためにヴォーバン(モンドーファンの要塞を建造したルイ 14 世時代の技師)によって大幅に改修されました。
●過去にCombe du Queyras ケーラス渓谷を走ったルート
 ●1998.7.2:Col d'Izoard(2361m)⇒★渓谷の西部分⇒Guillestreギエストル⇒Embrun
 ●2002.6.18:Guillestreギレストル⇒★Combe du Queyrasケーラス渓谷⇒Ristolasリストーラ
 ●2007.6.20:Abriesアブリエス⇒★渓谷の東部分⇒Col d'Izoardイゾアール峠)
 ●今回:2019.6.22:Risoulリスル〜ギレストル〜Melezetメルゼ谷⇒★Queyrasケーラス渓谷⇒Abriesアブリエス

---
Combe du Queyras ケーラス渓谷
Chateau Queyras-1 シャトー・ケーラス の城塞
Chateau Queyras-2 Chateau Queyras-2 シャトー・ケーラスの村
Ville Vieille/Aiguilles ヴィル・ヴィエイユ/エギーユ(エギュイーユ)
---
---
● 全体情報
・ギレストルの町は平均標高 1,000m。Abriesが1550m・・標高差550m・・  道路28km 直線26km
・ギル渓谷の左岸に位置し、デュランス川との合流点の直前。
・Queyrasケイラス渓谷への玄関口に位置する。

<・・>
ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る この旅のtopへ戻る 前ページに戻る
Copyright © 1996- Kitamura All Rights Reserved.
 
 



【赤色:ガ峡谷〜グリモーネ峠〜ベーヌ〜ガップ〜ポンソン:ハンニバル軍推定ルート】
Elephants

●「ハンニバルと象」が、この地を進軍した状況など(推定-012)


●カルタゴの将軍ハンニバルと象が越えた峠
●有力推定ルートのIndex

 ・前のポイント=001:生誕〜ローヌ川着
 ・前のポイント=002:ローヌ渡河+渡河戦
 ・前のポイント=003:ハンノの分遣隊ルート
 ・前のポイント=004:「島」
 ・前のポイント=005:ドローム川に沿い
 ・前のポイント=006:Dieディの前まで
   <006a:Crestクレス付近(2002年紀行)>
 ・前のポイント=007:Dieディ
   <007a:Dieディ(2002年紀行)>
 ・前のポイント=008:Chatillon en Diois シャティヨン・アン・ディオア
   <008a:シャティヨン・アン・ディオワ(2002年紀行)>
 ・前のポイント=009:Gorges-des-Gatsガ峡谷

   <009a:Gorges-des-Gasガ峡谷(2002年紀行)>
 ・前のポイント=010:Glandageグランダージュ〜Les Maillefauds レ・マイユフォー〜La Viereラ・ヴィエール
    <010a:Glandageグランダージュ(2002年紀行)>
 ・直前のポイント=011:Col de Grimoneグリモーネ峠〜ベーヌ〜Gapガップ〜Ponconポンソン〜アンブラン
     <011a:グリモーネ峠> <011b:セール> <011c:ガップ> <011d:エスピナス> <011e:ポンソン(2002年紀行)>
  ↑↑
★このページ=012:Guillestreギレストル
    <012a:ギレストル(1998年紀行)> <012b:ギレストル(2002年紀行)>  <012c:ギレストル(2010年紀行)
  ↓↓
 ・次のポイント=013:Queyrasケーラス渓谷〜:戦闘〜Chateau-Queyrasシャトー・ケーラス(城砦)〜Ville-Vielleヴィル・ヴィエイユ〜Aiguillesエギーユ〜
    <013a:Queyrasケーラス渓谷(2002年紀行)>  <013b:Chateau-Queyrasシャトー・ケーラス(城砦)(2002年紀行)〜>


<この地に到達時のハンニバル軍の推定状況>
・ハンニバルの全軍がガップ付近(BC218年10月18日頃)を進攻中、部族の長老らが「友好の挨拶」に来、イタリアに向かう山への道案内と食料提供を申し出た。ハンニバルは人質を条件に受け入れ「デュランス川」にそって前進。
・ポンソン・アンブラン付近(10月19日頃)を通過したあと、「デュランス川」を離れ、東に「ギル川」に沿いギレストル(10月20日頃)付近を通過したと推定します。


【ハンニバルの行軍推定ルート(緑実線)、安全なルート(緑点線)】
・軍の規模は、歩兵3.6万人、騎兵7.3千騎、象35頭。
・軍の荷物を運ぶ「駄獣」は4-5千頭、使役0.5-1.5千人。

<疑問>
・なぜアルプス越えの人通り・実績が多い「北に向かうデュランス川ルート」を離れ、危険一杯・山深い「東へのギル川ルート」を進んだのでしょうか??

【リスルから見た「デュランス川の谷」と「ギル川」方面の風景】

・それこそ、3日ほど前「枝と花輪」を持って挨拶に来た、道沿いの部族の計略だったのでしょう。人質を差出し、家畜などの食料を提供し、イタリアへの道案内をした彼らの狙いは、ハンニバル軍が持参している多量の財産(家畜・武器など)だったと想定されます。
・多分「北のモンジュネブル峠の先にはローマ兵が待ち構えている・・」とか
 「イタリア・ローマの方角は東。安全にアルプス出来る道・・」などの言葉があったのだろうと・・思われます。



●ハンニバルの象の種類など
3種の象と馬の大きさ
 【3種の象と馬の大きさ(肩高)】
   貨幣のアフリカ象    貨幣のアフリカ象・象使い    貨幣のインド象
 【左:カルタゴの貨幣に描かれたマルミミ象、中:象と象使い(BC220年)、右:エトルリアの貨幣のインド象(BC217年)】

 ハンニバルは40頭ほどの象を率いて戦いに出ましたが、その象の種類は、マルミミ象(アフリカ象の亜種)と、インド象と想定されている。

<象の種類と特徴>
・アフリカ象:肩高3-3.5m、重さ6-7.5ton・・・耳大きい、背中の中央低い、アフリカ・サハラ砂漠の以南のサバンナに住む。

・マルミミ象(アフリカ象の小型の亜種とも言われる):肩高2.1-2.4m・・・耳はアフリカ象の1/2、西アフリカの森林に住む。

・インド象(アジア象):肩高(雄)2.7-3m、重さ4-5ton・・・耳はアフリカ象の1/3、背中丸い、アジア南部。

 貨幣に刻まれた象の大きさなどから、ほとんどはマルミミ象(アフリカ象の小型の亜種)。そして数頭のインド象がいたようである。最後まで生き残ったハンニバル乗用の象「スールス(シリア人)」はインド象とされる。

 象の平均寿命は50-70歳。おとなしく、アフリカ象といえども凶暴ではなく(雄の発情期は危険)、象使いの指示で家畜や軍役に用い得た。馬(肩高1.2-1.7m)での戦いにも、象は高く巨大なため、敵を威嚇するためにも有効であった。

<象を用いた当時の戦闘>
・BC4世紀、ペルシャ王Dariusダレイオスは「インド人にならって、象を兵器にはじめて使った司令官」といわれる。
・BC326、「パウラヴァ王国のPorusポルス王」は大象に乗り、300頭もの象を駆使してアレキサンドロスを悩ませた。
  Alexanderアレキサンドロス大王は、インド象をエジプトに連れ帰り定住させた。さらにアフリカ象も捕らえ馴らすようになった。
・BC321-312、Ptolemyプトレマイオス1世は、ペルディッカスの軍象を何頭か捕らえた。ガザで象43頭を捕らえる。
・BC280、Pyrrhusピュルロスがローマに侵攻、象20頭を用いた「Heracleaヘラクレアの戦い」。
・BC246-241、Ptolemyプトレマイオス3世は第3次シリア戦争でセレウコスを破り、多数のインド象を手に入れた。
・BC217、「Raphiaラフィアの戦い」でエジプト軍(マルミミ象=アフリカ象の小型の亜種=73頭)と、シリア軍(インド象102頭)
  が戦う。エジプト軍(プトレマイオス2世)が勝ち、インド象を入手、ハンニバルに贈った。

 このように、当時の戦いで象を用いることは珍しいことではなかった。
ただ、戦いで狂いたった象は、敵・味方双方に害を与えたため、アレクサンドロスなどは自軍に象部隊を使わず、荷役のみとしていた場合もある。



■参考資料:
ポリビオス(BC200-118)の記述
本:Polybiusポリュビオス著 『ポリュビオス 歴史〈1〉』城江良和訳:京都大学学術出版会(P-page)
本:Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア著 『ハンニバルの象 ALPS and ELEPHANTS』時任生子訳:博品社(G-page)
本:John Prevasジョン・プレヴァス著『ハンニバル アルプス越えの謎を解く HANNIBAL CROSSES THE ALPS』村上温夫訳:白水社(J-page)
本:Hans Baumannハンス・バウマン著『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
本:『『アフリカ象とインド象』實吉達郎著 光風出版1994.10
本:新潮文庫:『ローマ人の物語「すべての道はローマに通ず」上:No.27 p.177〜』塩野七生:(SN-page)
本:The Green Guide:『French Alps』2020 Michelin:(M-page)

https://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Polybius/3*.html【Polybius/歴史第3巻:52-1〜】
https://omnesviae.org/#【OmnesViae:Roman Routeplanner:Google-Mapsにポイティンガー図を展開】
動物日和:名月子店【6種のゾウ:日本では全種に会える!見分け方を写真で解説。アジアゾウ・アフリカゾウ・マルミミゾウ】

ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る
EU-Alps 峠の茶屋・掲示板:EU-ALPS.com

 質問などありましたら eualps@gmail.comへどうぞ。
★本サイト内を、地名などのキーワードで検索できます★

eu-alps.com内検索 WWW検索