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Col de Grimoneグリモーネ峠(1318m)〜Veynesベーヌ〜Lac de Serre Ponsonセール・ポンソン湖

この地を進軍した状況ハンニバルは?

ハンニバル軍が、なだらかで見通しのよい土地を、比較的安全に進むことができた地・・

   【フランス:プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方(オート=アルプ(05)県)】  [北村 峠一].(Kitamura)      


【赤線:Gaガ峡谷〜Glandageグランダージュ村〜Grimoneグリモーネ峠〜Veynesベーヌ〜Gapガップ〜Ponconポンソン湖のルート(2019年) 】


 2019.6.21:2泊したDieディーを出発、Gasガ渓谷〜Glandageグランダージュ村を経て、Grimoneグリモーネ峠方面に向かいます。

●Glandageグランダージュ村

【9:56 Glandageグランダージュ村を経て】


【Grimoneグリモーネ峠への上りから村方面w見下ろす】

●Grimoneグリモーネ峠(1318m)【●峠DB
 2002年にも通過したが、中々いい峠だったんだ。
 
【グリモーネ峠へのなだらかな道】【グリモーネ峠の小屋】

 ・・遠方に山並み

【10:17-18 東の遠方に山並み】



【10:21 D1075との分岐点 】



【10:36 D1075の岩肌 Ia Rochette La Rochette, 05140 Saint-Julien-en-Beauchene,この南に鉄道 】

●Veynesベーヌ

【11:00 Royalkebab2 6 Rue Paul Eluard, Veynesの街】


【街並み】

Veynesベーヌ
https://fr.wikipedia.org/wiki/Veynes

・この付近は四方を山塊に囲まれ、渓谷ではあるがわずかな傾斜で、農作物には適しており、プティ・ビュシュ川とその支流(ベウー川、ドゥルーゼ川、グレゼット川)からの洪水の影響を受けやすいが、西風から町を守るエゴー山に守られており、数多くの耕作可能な地域がある。
・フランス南部のベーヌとギャップの間の道路を「ハンニバル・ルート」と呼ぶ試みがあった。
・地理的な位置で、ヴェーヌは常に通過点。モンス・セレウクス邸(モンサレオン)は、ボルドーからエルサレムへの巡礼の道。ヴァピンカム(ギャップ)で分かれるローマ街道でもある。ドミティアヌス街道も近く。Dieとヴァランス、ヴェゾンとオレンジに合流する。
・「古代ローマの時代の街道<Valence/Valentiaヴァランス〜Vapincurn/Gapガップ〜Brianson/Brigantiumブリアンソン〜Torinoトリノ>」の道に沿っている。(SN-P.177-)
   
(Veynoisヴェイヌ:馬交換)〜(アド・フィーネ:馬交換+飲食所)〜(Gapガップ:旅館 古代名:Vapincvm) 〜(Chorgeショルジュ:飲食所) 



●モンモール付近

【左:11:05 モンモール付近:左に-2002/6/9に走った「Col de Rioupesリオウプス峠」や「Col du Festreフェストレ峠」のルート、2007/6/8に走った「Col du Noyer ヌヮイェ峠(1664m)」や「Pic de Bure山」が見えてくる。】
【右:11:15 2007.6.8に泊った宿Hotel AZUR: ラ・フリシヌーズ azur-gap.worhot.comを通過】

●Gapガップ

【11:17-19 特徴ある山・・GAP前】
2002.6.9に通過、  2007.6.8に通過、  2019.6.16に通過の街の郊外を走り〜

●Gapガップ
<ハンニバルの時代>
・『ハンニバルのアルプス通過の歴史Histoire du passage des Alpes par Annibal p. 212』<歴史家Jean-Andre de Lucジャン=アンドレ・ド・リュックの著書>によれば、ギャップはcelto-ligures des Tricoriiトリコリオ族のケルト・リグーリア人 の首都である。これらの人々はおそらくCaturigesカトゥリゲス部族に属しており、ケルト語を話していました。
・別の仮説は、ここがAvatiquesアヴァティクスの首都であるというものです。
<ローマ時代>
・その後、Gapencaisガパンセ族は紀元前125 〜 124 年のナルボネーズ征服中にローマ字化されたガリア人である Voconcesヴォコンセ族の領土の一部となりました。紀元前、首都は Luc-en-Dioisリュ・アン・ディオワ とVaison-la-Romaineヴェゾン・ラ・ロメーヌでした。
・紀元前20年頃紀元前、スゼ渓谷の部族長コッティウスは、ローマと同盟を結び、アウグストゥスに促されて、デュランス渓谷に通信路の建設に着手した。彼は独立を維持したいと考えていた関係するさまざまな人々を鎮圧しなければなりませんでした。このルートは紀元前 14 年から紀元前 6 年の間に建設されました。
・紀元前には、Via Cottia per Alpemヴィア コッティア ペル アルペムという名前が付けられ、トリノとシストロンを結び、6 つの駅がありました。ギャップの町は、これらの駅の 1 つから設立されました。
・ローマ皇帝オーガストゥスAugustusは、紀元前14年に町を制圧し、町の名をVapincumウァピンクムに改名した。
・ 22 年、ギャップはトリノからヴァレンスに向かうローマ街道の起点となりました。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Gap



●Lac de Serre Poncon セール・ポンソン湖:Savines-Le-Lacサヴィーヌ=ル=ラック
1958年のフランス映画『L'eau Vive 河は呼んでる』(ジャンジオノの作品。主演:パスカル・オードレ)の舞台・・このダムでたくさんの村・人家が水没したPonconポンソン湖

【11:52-53 右に橋見える。橋渡る・・河は呼んでいる・・】


【橋の上】

ポンソン湖のレストランで昼食。・・若干眠い?


【Lac de Serre Poncon セール・ポンソン湖と、ダム湖の橋。遠方正面の山=Grande Tour de Chabrieresシャブリエール山(2370m)】


【普仏戦争の戦没者慰霊碑 】【橋の南:共和国を讃える記念 女神像】

★普仏戦争の戦没者慰霊碑 HOMMAGE DE LA COLONIE SAVINOISE
https://e-monumen.net/
・彫刻家、アリスティド・オネシム・クロワジー (1840-1899) の作品 ・「普仏戦争」: 1870〜1871年、ドイツ統一をめざすプロイセンと、これを阻もうとするフランスとの間で行われた戦争。 スペイン王位継承問題をきっかけに、プロイセンの挑発に乗ったフランス側から開戦したが、プロイセンが圧勝、統一を完成してドイツ帝国の成立を宣言した。

★共和国を讃える記念碑:女神像:1906年建造
ポンソン湖の「共和国を讃える記念碑:女神像


【レストランで昼食。 骨付き羊肉、生ハム ジャガイモーチーズ】


【レストラン風景】

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【赤色:ガ峡谷〜グリモーネ峠〜ベーヌ〜ガップ〜ポンソン:ハンニバル軍推定ルート】
Elephants

●「ハンニバルと象」が、この地を進軍した状況など(推定-011)


●カルタゴの将軍ハンニバルと象が越えた峠
●有力推定ルートのIndex

 ・前のポイント=001:生誕〜ローヌ川着
 ・前のポイント=002:ローヌ渡河+渡河戦
 ・前のポイント=003:ハンノの分遣隊ルート
 ・前のポイント=004:「島」
 ・前のポイント=005:ドローム川に沿い
 ・前のポイント=006:Dieディの前まで
   <006a:Crestクレス付近(2002年紀行)>
 ・前のポイント=007:Dieディ
   <007a:Dieディ(2002年紀行)>
 ・前のポイント=008:Chatillon en Diois シャティヨン・アン・ディオア
   <008a:Chatillon-en-Diois シャティヨン・アン・ディオワ(2002年紀行)>
 ・前のポイント=009:Gorges-des-Gatsガ峡谷

   <009a:Gorges-des-Gasガ峡谷(2002年紀行)>
 ・直前のポイント=010:Glandageグランダージュ〜Les Maillefauds レ・マイユフォー〜La Viereラ・ヴィエール
    <010a:Glandageグランダージュ(2002年紀行)>

  ↑↑
★このページ=011:グリモーネ峠〜ベーヌ〜ガップ〜ポンソン
   <011a:Col de Grimone グリモーネ峠> <011b:Serres セール> <011c:Gap ガップ> <011d:Espinasses エスピナス> <011e:Poncon ポンソン(2002年紀行)>
  ↓↓
 ・次のポイント=012:Guillestreギレストル
    <012a:Mont Dauphinモン・ドーファン/ Embrunアンブラン(1998年紀行)〜Guillestreギレストル(2002年紀行)>


<この地に到達時のハンニバル軍の推定状況>
・ハンニバルの全軍が「ガ峡谷」で襲撃された後、グランダージュ村経由で〜グリモーネ峠(BC218年10月16日頃)〜ベーヌ(10月16-17日頃)〜ガップ(10月18日頃)〜ポンソン(10月19日頃) と推定する。
・軍の規模は、歩兵3.6万人、騎兵7.3千騎、象35頭。
・軍の荷物を運ぶ「駄獣」は4-5千頭、使役0.5-1.5千人。
・襲撃した山岳族アプロゲスの大半はハンニバルの軍に殺され、生き残ったものも敗走し、居住地に追い立てられた。

●ハンニバル軍の状況
・「ガ渓谷」で襲撃され多数の死者を出し、まだ耳に残る悲鳴や、泣き声で不安であった戦士たちも、この峠の平坦な道の見晴らしが利きだすにつれ、平静になったでしょう。
・体制を立直し、襲撃した山岳族アプロゲスを殺し、生き残ったものも敗走させて追い立てます。
・Glandageグランダージュ村を東に7-8kmの道程(標高差約700m)のところにグリモーネ峠はあります。さらに東のLunel川、国道N75まで約5km、高度差300mほど、それほど険しい峠ではないのです。
・峠の東、平野に向かっての眺めのよい下りの峠道。はるか遠方にはアルプスの山並みも見え、あの先がイタリアなのかと思ったことでしょう。
・軍と荷役の動物、馬の群れは峠を越え、敵の出撃基地であった下の平野の町を目指して進みます。

<ベーヌ付近 (10月16-17日頃)>
・着いてみると住民は戦利品の約束に釣られてすべてで払っており、誰もいなかったので、この町を獲得し、今すぐに役立つものも数多く手に入れます。
 その中には多くの荷役動物や馬やそれらの御者、さらに数万人の自軍の3日分に十分足りる穀物と家畜が含まれていました。 十分な食料が確保できたことは、兵士や馬・象などの心身をも安らませます。
・この村で、今回の襲撃や、それ以前に略奪された多くの軍需品を取り戻すことができ、さらに何日かの間に山岳族に捕らえられていた戦友を発見したといいます。
・山岳族を打ち破ったという情報が近在の部族に伝わり、以降しばらく、敵に自然な形で敬意を払わせ、自分たちの土地を通過するハンニバル軍を攻撃する部族はいなくなったといいます。
・翌日の丸1日[アルプスを登り出して3日目]軍は休息を取り、再び行動を開始します。(G-p77)
・なだらかで幅広の見通しのよい土地を、軍は比較的安全に進むことができた。

<ガップ付近 (10月18日頃)>
友好のしるし:枝と花輪
・「枝と花輪」?⇒「枝 花輪 古代ギリシャ」の検索
⇒laurel-wreath-and-a-palm-branch
 :月桂樹の花輪とヤシの枝関連の画像
・この付近を進攻中、道沿いの部族の長老らが、友好のしるしとして[枝と花輪]を持って挨拶に来る。
 そして自分達はアルプスの、イタリアに向かう峠付近の代表者であり、アルプロゲス族のように刃向かって占領されるようなことはしたくない。山への道案内人と食料を提供したいと申し出る。
 ハンニバルも懐疑的には思ったが、道案内と食料の必要性などから、多数の人質を出すことを条件に受け入れる。そして「デュランス」川にそって前進。
・デュランスの幅の広い河川敷。今ダムがある場所が唯一狭くなっていますが、それ以外は見通しのよい土地。安全に軍を率いていくことができます。
・道案内人、食料も得て大きな問題もなく進んでいく。

<ポンソン付近 (10月19日頃)>


<当時の人口規模と近隣の町>
・この下の平野で数万人の兵士が3日分の食糧を確保できたとのことです。
 とすると、(最低必要食料/日=25ton=約5万人*500g/1日1人当り食料・・・200人規模の村の約1年分=250倍)と仮定すると、600人規模の村の全食料を占拠したことになります。

・さらに攻撃してこないばかりか、敬意を払ったとなると、備蓄食料にさらに余裕のある・・・1000人以上の規模の町だったと思われます。

人口増加グラフ
  『人口増加グラフ』
   西暦元年(2000年前)で推定2.5億人、現在約60億人

・今から2200年以上前の人口は現在の1/30〜1/15程度<注1>、衛生や、物流・保存などのシステムを考えれば、当時の1000人(現在の3万〜1.5万人相当)を越す町はそれほど多くなかったはずで、

・・・現在この付近の大きな町といえば、グルノーブル(40万人)、ディ(4千人)、シストロン(6千人)、ガップ(3万人)・・・

と、Gapガップと同程度の人口がこの周辺にあったこととなります。今この周辺にはそのような町はないので、当時このBochaine一帯を仕切っていた豪族などがいたのでしょうか。

−−−−
<注1:国立社会保障・人口問題研究所の統計情報(世界人口:紀元前〜)によると、西暦元年で世界の人口は200〜400百万人。
   http://www1.ipss.go.jp/tohkei/Popular/Popular.asp?chap=1 
  これは現人口に対して、1/30〜1/15となります。

  参考に、当時の日本(弥生時代)の人口を見ると60万人(=1/200)。
   AD750年(奈良時代)に559万人(=1/21)となっており、農耕が進んだためか、急激に人口が増加しています。>

■参考資料:
本:Polybiusポリュビオス著 『ポリュビオス 歴史〈1〉』城江良和訳:京都大学学術出版会(P-page)
本:Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア著 『ハンニバルの象 ALPS and ELEPHANTS』時任生子訳:博品社(G-page)
本:John Prevasジョン・プレヴァス著『ハンニバル アルプス越えの謎を解く HANNIBAL CROSSES THE ALPS』村上温夫訳:白水社(J-page)
本:Hans Baumannハンス・バウマン著『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
https://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Polybius/3*.html【Polybius/歴史第3巻】
https://omnesviae.org/#【OmnesViae:Roman Routeplanner:Google-Mapsにポイティンガー図を展開】
本:新潮文庫:『ローマ人の物語「すべての道はローマに通ず」上:No.27 p.177〜』塩野七生:(SN-page)
本:The Green Guide:『French Alps』2020 Michelin:(M-page)


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