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Mont Dauphinモン・ドーファン/ Embrunアンブラン

フランス:(05)オート・アルプ県】 [北村 峠一].(Kitamura)     

<モン・ドーファンMont-Dauphin>

・17世紀、ルイ14世に寵愛を受けた技術者ヴォーバンが手がけた、城壁に囲まれた要塞の町。現在の人口約140人。
・2008年年7月、世界文化遺産に登録。町の美しさ、眺めも実に素晴らしい。
http://www.mont-dauphin.com/【Mont-Dauphin】
http://fr.wikipedia.org/【Mont-Dauphin】
http://www.linternaute.com/【城砦】
<●最初に:このページは1998年の旅(H-Site)の情報です。ハンニバルのルートにあたるため、2002年の旅(O-Site)からジャンプして来たかたは、下のハンニバル情報にどうぞ。>

Guillestreギエストルの旧市街に別れ、Mont Dauphinモン・ドーファン(モン・ドーフィネ)で国道94号線を南下。Embrunアンブランに向かう。


【guille112.jpg:Guillestreギエストルの旧市街を右に見て西に向かう。正面の山はEcrinsエクラン山脈の南西の端Tete de Fouran山(2459m)】


【mont-dauphin18.jpg:Mont Dauphinの村の西で、デュランス川に沿った国道N94号線に合流。右に行くとブリアンソン方面、左に行くとガップ方面。】


【40.jpg:ガップ56Km、シストロン100Km、Embrun16Km。デュランス川は右下を流れる。】

Duranceデュランス川は途中から左下に。エクラン山脈のゆったりした裾野を走り、やがてアンブランに、大きな街だ。

【embran155.jpg:右のMont-Guillaume山(2552m)など、エクランの山の大きな裾野。正面の台地はポンソン湖の南Pic de Morgon山(2327m)と東に連なる山脈】


【167.jpg:国道に沿って広がる明るい町。並木が続く。】


【177.jpg:冬のクロスカントリー、夏のカヌーなど四季を通じてのリゾート地。】



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<私たちはこの先南西に、ポンソン湖の南岸を走りバルスロネットへむかいます。>


Elephants

●「ハンニバルと象」がこの地(推定)を進軍した当時の状況など。

 ●前のポイント「Poncon湖」←  【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Guillestre」




【ハンニバルの行軍推定ルート(緑実線)、本来の希望ルート(緑点線)】



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<ここまでの経緯>
 約4.5カ月前スペインを出たカルタゴの軍は、ローヌ川〜ドローム川を経由し「ガ渓谷」で奇襲に会い、歩兵2千300人、騎兵400、象8頭を失った。ガップ付近を経て、デュランス川をさかのぼりこの地に。

<この地のハンニバル>
 この地点を通過するハンニバル軍の規模は、歩兵3.5万人、騎兵7.6千騎、象26頭。

 紀元前218年10月16日頃にこのEmbrun〜Mont-Dauphin付近でキャンプを張ります。アルプスの登り道から6日目。イタリア国境の峠越えまで残り9日。

 デュランス川上流の比較的幅の広い河川敷。見通しのよい土地で安全に軍を率いていくことができます。

 この付近の部族の案内人(注)を連れ、食料も得て大きな問題もなく進んでいきました。

  (注:前日Espinasses付近で、地元の部族の長老らが「枝と花輪」(友好のしるし)を持って挨拶に来ます。そして自分達はアルプスのイタリアへの峠付近の代表者であり、アルプロゲス族のように刃向かって占領されるようなことはしたくない。山への道案内人と食料を提供したいと申し出ます。ハンニバルも懐疑的には思いますが、道案内と食料の必要性などから、人質を差し出すことを条件に受け入れます。)


●ここMont Dauphinモン・ドーフィネ付近で、ハンニバルはまたも判断を誤ります。
 この付近から道は、二手に分かれます。
 (1)北へBrianconブリアンソンへの、デュランス川の広い谷を経由し、Montgenevreモン・ジュネーヴル峠道を経てイタリアに向かう道。
 (2)東にGuilギル川に沿い、Guillestreギレストル経由、Traversetteトラヴェルセッテ峠を越えてイタリアに抜ける道。

古代ローマの峠道
【古代ローマ街道:カルタゴが負けた以降、Montgenevre峠経由のルートが街道としてできた】
「古代ローマの道とアルプスの峠」も参考に。

 (1)の北に行く道は、
  ・デュランス川の谷は幅も広いのです。↑の[mont-dauphin18.jpg]
  ・↓[Alps-Flight]の写真で、上空からみても広い谷です。
   Alps-Flight:サン・クレパン飛行場上空
  ・「古代ローマの道」として、このあと200年ほど後では頻繁に使われる道。
   →右のMontgenevre峠経由のルートを参考に。

  ハンニバルの当時でも、(2)よりはるかに容易に通行できたはずのルートです。
  が、なぜこの(2)の困難な道を選んだのでしょう。

  (1)の北に向かうべきとは思っていたが、
   「そこにはローマ軍が待ち構えているのでは」の懸念。
   「地元の部族の長老=この付近の部族」のたくらみ、そしてその指示による案内人の謀略。  などが考えられますが・・・

  多分、案内人の「北はケルト(ガリア)の他の部族への道で、東に行かなくてはイタリアには行けない」との説明に不審に思い、何度も問い詰め(人質も盾に)・・・そして警戒は怠らずに(2)の東に向かったのでしょう。

   この判断で、ハンニバル軍は多大な損害をこうむるのです。

  →ハンニバル軍はギル川にそって東に、→「Guillestre」ギレストル方面に進んでいきます。<2002年の取材情報に戻ります>

  ●前のポイント「Poncon湖」←  【●ハンニバルの有力推定ルート】  →●次のポイント「Guillestre」
  

注:(Briancon ブリアンソンを経て、Montgenevreモンジュネーヴル峠に行くルートを推定している説もあります)
  

・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いしますハンニバル応援

参考資料:
 この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本は以下のものである。
 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page)
 ・John Prevasジョン・プレヴァス『HANNIBAL CROSSES THE ALPS ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫訳:白水社(J-page)
 ・Hans Baumannハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page)
 ・The Green Guide:『French Alps』2001 Michelin:(M-page)
 ・Hermann Schreiberヘルマン・シュライバー『古代ローマへの道』関楠生訳:河出書房1989.2


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