ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る この旅のtopへ戻る 前ページに戻る 次のページへ  Time/Data count ヨーロッパアルプスのハイキング地図
【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】
  【国別地図】  【日本語ガイド本】

Montgenevreモンジュネーヴル峠

Montgenevreモンジュネーヴル峠
 (1850m)【
●峠のDBへ

ハンニバルの進軍状況  ナポレオンの栄光をたたえて作られた碑が遠くから見えます。・・・フランスとイタリア間のアルプスを越える最古の峠の歴史は、長い戦いの歴史でした。この峠・・・通年通行可能な峠、イタリアへの下りはそれほど急ではなく・・・ハンニバルの下った峠はここではないと思うのですが。



【Briancon〜Montgenevre峠〜Cesana〜のルート】

 アメリカ・イギリス軍によるイラク攻略に先立つ2003年2月14日、国連安全保障理事会でのフランス・ドビルパン外相の演説に、平和的解決を望む各国からの拍手が長く続きました。彼のイラクへの査察継続を訴えたあとの締めくくりの言葉「・・・これは、戦争と占領と蛮行をよく知る欧州の古い国、米国という解放者の恩を忘れない国でもあるフランスからのメッセージであります・・・」

 フランスは第一次、第二次世界大戦の2度にわたり、ドイツから侵略・占領され、アメリカの力を借りて戦勝国になった歴史をふまえ、今回の武器による制圧を望まない各国への呼びかけとして、その心に訴えるものでした。
 しかし、この峠をはじめとするいくつかの個所で、第二次大戦時のイタリア側への領土侵略エリアが残っている現実。彼の演説を聞いて少し複雑な面も感じます。さらに・・・

 ここモンジュネーブル峠は、古代からフランスとイタリアのアルプスを越える最古の峠でした。紀元前58年、ガリア遠征にむかったユリウス・カエサル(シーザー)もこの峠を幾度も通過したと記録されています。帝政ローマ帝国の時代(〜5世紀)には、スペイン・フランス方面に向かう街道として整備され、キリスト教の布教にともなった巡礼などにもさかんに用いられてきました。他の峠道に比べ、各地方への分岐点であり、標高もあまり無く、地形もそれほどけわしくないことなどから選ばれたのでしょう。

 6世紀フランスの地に興きたフランク王国は、その領地を東のイタリアに広げていきます。10世紀以降、ブルグント王国、サヴォワ公国、サルディーニャ王国など、スイスのような山岳地帯の国家ができますが、フランスにより分割併合されてしまうのです。

 ナポレオン帝国の侵略(〜1812年)は、ほぼ西ヨーロッパ全域に達しますが、このモンジュネーヴル峠もナポレオンからの「大砲が通れる道」の指示で、幅7〜8m、最大傾斜10%の整備が1804年に完成したのです。

 この峠をめぐる古い歴史は、イタリアの攻勢のあと、フランスによる侵略の歴史そのもののように思えるのです。(欄外の歴史参照

 2006年冬季オリンピックの開催予定地、セストリエール峠を出発し、チェザーナ・トリネーセの町を抜け、SS24号線(イタリア)/94号線(フランス)を西に向かいます。すぐに峠道が始まり、目の前に絶壁の岩山が立ちはだかります。そしてその先、今度は白っぽいむきだしの岩肌の山の斜面をカーブし、トンネルを抜けて走ります。Chabertonシャベルトン(3136m)山の南斜面、あの頂上はフランス国境です。


【109.jpg:60度くらいの岩の壁面。その右に峠道がある】

 
【132/120.jpg:シャベルトン山の南斜面、むきだしの岩肌を走る峠道】


 国境の村Claviereクラヴィエーレも、冬季オリンピックの会場になるところ。国境での競技開催が平和の象徴という言葉は、少なくとも現在この地には当てはまらないように感じます。旧検問所の建物や旗がひらめいて、フランスに入ったことがわかりますが、まだ峠はこの先数km食い込んだ先にあります。

 ポー川とデュランス川の分水嶺の峠(1850m)には、遠くからも見える尖った碑(壁面にナポレオンの文字が刻まれている)と、Montgenevreモンジュネーヴル(フランス名)/Monginevroモンジネーヴロ(イタリア名)と、二つの村名が書かれた看板があります。

 
【138.jpg:モンジネーヴロ街道】 【142.jpg:街道の正面の三角の山は、フランスのLe-Janus(2548m)でしょうか】


【205.jpg:国境検問所と、遠方に塔】


【207.jpg:Montgenevreモンジュネーヴル村の表示、ナポレオンをたたえる尖塔の碑。峠の標識は見えない】

●NAPOLEONS OBELISK :ナポレオンの方尖塔(ほうせんとう)

 1804年9月、このモンジュネーヴル街道の開通(整備)と、ナポレオン皇帝(一世)の栄光をたたえて建てられたものです。
 この道は、古代ローマの時代からの道でもあり、ナポレオンの指示でシンプロン峠、モン・スニ峠とともに大規模な整備が行われた。領土拡大のためにも、大型の武器が通行できる道の整備が必要だった。

<この付近のURL>
 ○http://www.montgenevre.com/index1eus.asp【Montgenevreガイド】


【221.jpg:村に入って・・・折り返すことに】

【ブリアンソンには大規模な砦が築かれている】

 この先をさらに東に向かうとBrianconブリアンソンです。1998年の旅でその町を訪れましたが、地中海マルセイユやスペイン方面と、リヨンやジュネーブ方面への2つの街道へ分岐する大きな町。その戦略拠点には紀元前から自然の地形を利用した、巨大な城塞が築かれていました。フランスを守るための重要な砦だったのでしょう。しかし今はさびれた田舎の町です。今回の旅ではそこまで行かず、この峠の村で折り返すことにします。
−−−−−−−−−−

 第二次大戦以降、フランスとイタリアの間に大きな争いごとは無かったようにみえます。トンネルを作り、物資を流通させ、人の流れもスムーズになり、車の国境検問すらない時代になりました。NATO、EU、ユーロ通貨と一体になった防衛・経済活動の時代になったのです。

●Echelleエシェル峠(1766m)、Granon峠(2413m)のこと

 この峠を西に10kmほど下ったところから、北に向かう道があり、Echelleエシェル峠(1766m)を経てBardonecchiaバルドネッキアの町、モダーヌへのトンネル方面へいきます。

 今回の旅でもここを走ろうと思ったのですが、林道レベルの道で、かつ、峠の下は私道で必ず通行できるとは限らない(イタリア公式ガイドp31)とのことで、今回ここの通過はあきらめました。

 さらにGranon峠(2413m)も近くにあります。こちらも林道・・・バイクの方は是非トライしてください。
⇒ 2005.9.15 通過しました
 が、詳細な地図を整理しながら、不思議な個所を見つけます。それは右図のような、モンジュネーヴル峠、Echelleエシェル峠(1766m)付近、国境と峠/分水嶺がずれている個所です。フランスの領地が、地形上の分水嶺を越えてイタリア側に入っているのです。この差はなぜ発生したのでしょうか?

 第二次世界大戦でドイツの支援を受けたイタリアが、フランス国境を越えて侵略。フランス側はパルチザンや、連合軍とで対抗し1945年の停戦を迎えます。その和平条約で、勝ち取ったここをフランス領にしたのです、数百人の村人と共に。 そして、国境という水・土・人の争いの火種をここに残したのです。

 ドビルパン外相はあの演説のなかで、自国におけるこのような問題・歴史も含めて演説したなら、さらに訴えられたのではないでしょうか。
●峠・国境・ダムが入り組んだ場所と歴史も参照】


−−−−−−−−−−

 峠をイタリアに向けて下ります。あの遠くに見えている雪山は、Dora-Ripariaドーラ・リパリア川、スーザ渓谷を隔てた、モンスニ峠との間のフランス国境の3000mを越す山脈です。この下り道、それほど急な傾斜ではありません。


【231.jpg:スーザに向かって下っていく】
<付近のWebサイトなど>
トリノ付近のホテル検索【JHC:広域ホテル検索鉄道・コンサートなどオプション
トリノ付近のホテル検索イタリア全域のホテル:地図から検索も】


<関連書籍・地図>
4840108196ロンリープラネットの自由旅行ガイド イタリア
ダミアン・シモニス

Amazonで詳しく見る
4840114382ベスト・オブ・トリノ
サリー オブライエン Sally O’Brien

Amazonで詳しく見る
Touring Club Italiano(1:15, 000)
8879141198

Amazonで詳しく見る
Turin Provincial Road Map (1:150, 000)
8879141198

Amazonで詳しく見る
Kompass社の地図 紀伊国屋で[洋書 Kompass Karten] のキーワードで検索)

●イタリア・トリノ:2006年冬季オリンピック関係



to-page-top
Elephants

●ハンニバルと象はこの「モンジュネーヴル峠」(推定)を進軍したか?

 −− ポリビオス(BC200-BC118)の記述による。「」は推定の地名 −−
 ●前のポイント「Brianconブリアンソン」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】 →●次のポイント「Po川上流平地」




 紀元前218年秋「ハンニバルと象がこの峠を越えた」とする推定もあります。 ・・・(トラヴェルセッテ峠や、アニュエル峠の確率のほうが高いのですが)・・・・

 ここの勾配をグラフにして見ます。当時、道路のない斜面を工作しながら下ったことを考え、峠の頂上から、川に沿って1Kmごとにプロットして傾斜を見ます。高度も無く、比較的なだらかな峠です。

 イタリアに向かっての下りの行軍で、ハンニバル軍は 約1万人の死者(歩兵9千,騎兵9百,象3頭と推定:kitamura)を出したのです。「凍死」が原因と考えられますが・・・
 ・この道は古代ローマの以前からも峠道があった可能性があります。
 ・イタリアを見下ろすすばらしい展望はそれほどありません。
 ・標高がそれほど高くなく、9〜10月に雪で遭難するほどの積雪はありません。
これらの状況からみて、この峠を通過した線は薄そうですね。


【Traversette峠と、Montgenevre峠の
「地形の勾配」】
●クリックで拡大 します
  
  【黒実線:峠前後5kmの川に沿ったルートと高度。
   赤点線:GR5Cハイキングコース 】
    ●クリックで拡大します




 ●前のポイント「Brianconブリアンソン」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】 →●次のポイント「Po川上流平地」
・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いしますハンニバル応援

参考資料:
 この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本は以下のものである。
 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page)
 ・John Prevasジョン・プレヴァス『ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫:白水社(J-page)
to-page-top


<イタリア、チェザーナ・トリネーセの町までは同じ峠道を折り返し、スーザにむかいます・・・・・>

<別表:モンジュネーブル峠と侵略の歴史>

 過去この峠を中心とした国境(勢力争い)の歴史を整理してみると、下表のようにまさに相互に侵略する歴史そのものです。・・・(表は一部未完)
<凡例>
★:国境 、 ←:侵略の方向:→  (上から下に★をたどると、国境の移動が見える)
西暦 関連事項フランス側  モンジュネーブル峠の領有者
(→★←:峠が領地の境)
    イタリア側
〜BC300ケルト     
〜BC2001/2次ポエニ戦争(-BC201)  ガリア ← ←★帝政ローマ
〜BC1003次ポエニ戦争(-BC146)  ←★ 帝政ローマ
〜  0カエサル(BC57-59)←★ ←★ 帝政ローマ  ローマ
〜 100帝政ローマ←★  帝政ローマ   
〜 200     ←★  帝政ローマ   
〜 300     ←★  帝政ローマ   
〜 400ゲルマン族移動(375-)←★
(395-)西ローマ帝国
 (395-)西ローマ帝国 (395-)西ローマ帝国
〜 500ゲルマン族移動西ローマ帝国(-476)
→フランク王国(481-)
西ローマ帝国(-476)
→ブルグント王国(443-)

→★←
西ローマ帝国(-476)
→オドアケル王国(476-)
東ゴート王国(488-)
〜 600 フランク王国 ブルグント王国(-534)
→フランク王国
→★←東ゴート王国
→ランゴバルド王国(568-)
東ゴート王国
〜 700  フランク王国→★←ランゴバルド王国 
〜 800  フランク王国フランク王国ランゴバルド王国(-774)
→フランク王国
→★
〜 900カール大帝(-814)西フランク王国(843-)★ イタリア王国(ロタール)(843-)
→ブルグント王国(879-)
→イタリア王国(ロタール)(843-)
→★←(879-)
→イタリア王国(ロタール)(843-)イタリア王国(ロタール)
〜1000 西フランク王国→フランス王国→★← ブルグント王国
→神聖ローマ帝国(962-)
ブルグント王国
→神聖ローマ帝国(962-)
イタリア王国→
神聖ローマ帝国(962-)
イタリア王国→
神聖ローマ帝国(962-)
〜1100 フランス王国ブルグント王国(-1032)
→★神聖ローマ帝国
(1032-)神聖ローマ帝国神聖ローマ帝国神聖ローマ帝国
〜1200 フランス王国★神聖ローマ帝国(ブルグント)神聖ローマ帝国神聖ローマ帝国神聖ローマ帝国(イタリア王)国 
〜1300十字軍(-1270)フランス王国★神聖ローマ帝国(ブルグント)神聖ローマ帝国神聖ローマ帝国神聖ローマ帝国
〜1400 フランス王国★神聖ローマ帝国(-1349)
→フランス王国(ド−フィネ)
神聖ローマ帝国(-1349)
→★←
神聖ローマ帝国(サヴォイ候国)神聖ローマ帝国
〜1500     フランス王国フランス王国(ド−フィネ)→★←神聖ローマ帝国(サヴォイ候国) 
〜1600宗教改革(-1572)フランス→ フランス王国(ド−フィネ)→★←神聖ローマ帝国(サヴォイ候国)神聖ローマ帝国 
〜1700       →★←神聖ローマ帝国(サヴォイ候国)神聖ローマ帝国
〜1800フランス革命(-1793)フランス王国→共和国(1792-)フランス→★←サヴォイ候国→サルデーニャ王国サルデーニャ王国
〜 ナポレオン(-1815)フランス共和国
→帝国(1804-)
→王国(1814-) 
 → → ★ 
〜1900ウィーン会議後(-1815)フランス共和国(1848-)
→帝国(1852-)
→共和国(1870-)
フランス→★←サルデーニャ王国イタリア諸侯領
〜 第一次大戦(-1919)フランス共和国フランス共和国→★←サルデーニャ王国
→イタリア王国(1861-)
イタリア 
〜2000第二次大戦(-1945)フランス共和国フランス共和国→★←
→★(何箇所かイタリア側に)
イタリア王国
→イタリア(1946-)
イタリア 
       
西暦 関連事項フランス側  モンジュネーブル峠の領有者    イタリア側

●ご意見・お問い合わせ・情報・何でも・・・「峠の茶屋・掲示板」でお待ちしています。EU-ALPS.com
ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ紀行 TOPに戻る この旅のtopへ戻る 前ページに戻る 次のページへ  Time/Data
ヨーロッパアルプスのハイキング地図
【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】
  【国別地図】  【日本語ガイド本】