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●過去にGuillestreギレストル付近を走ったルート ●1998.7.2:Col d'Izoard(2361m)⇒★⇒Mont-Dauphin⇒Embrun⇒Barcelonnetteバルスロネット ●2002.6.18:Col de Vars ヴァール峠⇒★⇒Combe du Queyrasケーラス渓谷⇒Ristolasリストーラ ●2010.6.20:Lac-de-Serre-Ponconポンソン湖⇒★⇒Mt-Douphinモン・ドファン⇒Puy-St-Vincentピュイ・サン・ヴァンサン ●2019.6.22:Gap⇒Ponson湖⇒Risoul1850 リスル⇒★⇒Melezetメルゼ谷⇒Queyrasケーラス渓谷⇒Abriesアブリエス |
●2019.6.21:Risoulリスルの宿付近から、世界遺産の「Mt-Douphinモン・ドファン」の城址の全体像が良く見えた。 【ケーラスの山並み、デュランス河の谷、そして城址】 【世界遺産の「Mt-Douphinモン・ドファン」の城址の全体像】 |
●世界遺産:「Mt-Douphinモン・ドファン」 ・1692年7月、サヴォワ公の軍隊はヴァール峠を越えて国境を越えた。彼らはギュイレストルを略奪し、アンブランとギャップを占領し、さらに南のセヴェンヌで大規模なプロテスタント蜂起に参加すると脅した。疫病と初冬の到来によりサヴォワの軍隊は撤退を余儀なくされたが、ルイ14世の宮廷では大警戒となった。 ・国王ルイ14世は、軍事技術者の長であるVaubanヴォーバン(1633-1707)に、アルプス国境沿いの要塞を緊急に見直すよう命じた。ヴォーバンは、サヴォワからドーフィネとプロヴァンスへの侵攻を阻止するための要塞をゼロから建設するため、ギュイユ川とデュランス川を見下ろす「千の風」と呼ばれる砂漠の台地を選んだ。皇太子に敬意を表してモンドーファンと名付けられた「要塞広場」は、1700年に完成した。・・「星形要塞:火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式」 ・しかし、1713年のユトレヒト条約により、ピエモンテはサヴォワに、ウバイエはフランスに返還された。国境は東に移動し、ブリアンソンが最前線の町となった。モンドーファンは後方基地となり、ヴォーバンが計画した駐屯地の規模に達することはなかった。 ・モンドーファンは第一次世界大戦後、いかなる軍事的役割も失った。また戦争の被害も免れた。軍が撤退すると、軍の下で働いていた店主、バーテンダー、職人もモンドーファンを去った。 ・1970年代から80年代にかけて人口は30人にまで減少したが、芸術家たちが観光客のために定住し始めると再び増加した。現在、モンドーファンに は約170人の永住者がいる。 ・2008年「ヴォーバンの防衛施設群」(モンドーファン、ブリアンソン、その他10のヴォーバンの主要な要塞)は、ユネスコの世界遺産に登録された。 <アラス、ブザンソン、ブライとキュサック=フォール=メドック、ブリアンソン、カマレ=シュル=メール、ロンウィ、モン=ドーファン、モン=ルイ、ヌフ=ブリザック、サン=マルタン=ド=レ、サン=ヴァースト=ラ=ウーグ、ヴィルフランシュ=ド=コンフラン> ・参考:イタリア:Palmanovaパルマノヴァ:1593年に建設された、9角形の要塞の町 ○https://www.montdauphin-vauban.fr/en/heritage/brief-history-mont-dauphin ○ヴォーバンの防衛施設群 |
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