[ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ・写真・絵本] [サヴォイア系図、年代] [サヴォイア地図]/ [フランス]/ [スイス]/ [イタリア]/ |
【Umberto I Biancamano】 |
> 【13-16世紀のサヴォワ】 【1450年頃のサヴォイア公国】 |
【イタリア統一を果たしたVittorio-Emanuele- II】 |
Chateau de Chillonシヨン城(シオン城) がレマン湖に張り出し、例のギザギザの山、Dents du Midiダン・デュ・ミディ(3257m)が遠くに見えています。この山の急斜面が湖に張り出した場所は、関所として最高の立地にありますね。 【1226.jpg:急斜面が湖に張り出したところにシヨン城が見える。遠方の山は、ダン・デュ・ミディDents du Midi山群(3,257m)】 |
<Chateau de Chillonシヨン城付近の地形と歴史>レマン湖に張り出したシヨン城付近は、紀元前から通行の関門になっていた場所。●カエサル(シーザー)以前と、「古代ローマの道」の歴史 ・現在のスイスに住んでいたケルト人(ヘルウェティイー族など)は、グラン・サンベルナルド峠などのアルプスを越え、ローマ側と物資の交流などを行っていた。 ・BC58-53年のカエサル(シーザー)のガリア戦記でもこの付近が登場する。 ・古代ローマ時代、道路整備が行われたが、このグラン・サンベルナルド峠からレマン湖岸を抜けVeveyヴヴェ〜バーゼル方面。またヴヴェ〜ジュネーヴを通過するルートが主要な道であった。(ヘルマン・シュライバー) ・このアルプス超え物資の通行税を取る場所としての要になったのが、ここヴヴェの東の極めて狭い湖岸の場所である。 ●シヨン城の歴史 ・9世紀頃にレマン湖に突き出た岩島の上に、街道の監視、通行税・物品税をかけるための関所が作られた。 ・城を拡大したSionシオン大司教の所有だったが、1150年頃からサヴォワ(サボア/サヴォイア)伯爵家の所有になる。 ・13世紀にかけて改修を繰り返し、現在の城の基盤が作られた。 ・13〜14世紀にはサヴォワ公の夏の居城として繁栄。 ・1532-36年には宗教改革推進派のボニバールが捕らえられ、地下牢に幽閉される。 ・1536年、プロテスタント教徒の攻略で城はベルン人のものとなり、ボニバールも開放された。 ・19世紀にデュマ、ユーゴー、ターナー、バイロン『シヨン城の囚人』など多くの詩人、画家、作家の作品に登場し、スイスの代表的風景として世界に名を知られていった。 ○http://www.chillon.ch/【シヨン城サイト】 ○http://www1.linkclub.or.jp/~swiss/photo/Montreux1.html【スイスのページ】 ○http://www.myswiss.jp/castle/chillon.htm【マイスイス】 |
このフランスとスイスの国境は、モンテ峠(1461m=Arveアルブ川:Eau-Noire川〜Trient川の中分水嶺)と、フォルクラ峠(1527m=Trient川:Drande川支流の小さな分水嶺)の中ほどにあります。 ふつうは峠(大きな分水嶺)が国境になっているのに、ここの国境は本来のスイスエリアに食い込んでいます。フランス:スイスの紛争があったようには見えないのになぜなのでしょう。 どんな歴史からこの国境はできたのでしょうか・・・推測してみます。 (さらに調査していきますが、皆さんでお判りの方がありましたら、教えてください。) <フォルクラ峠はなぜ必要だったのか?> ・Trient川に沿った下りの地形は、街道を作るのにはがあまりに厳しいのでは? (近世に川に沿った鉄道ルートが作られるが、トンネルを連続せざるを得ないような大変な地形) ・そのためフォルクラ峠に迂回ルートを作った。 ・モンテ峠に近いVallorcineの村人は、この地理から考えフランス側への交流が多かったのではないか? ・・・ <このエリアの支配・領土・国家などの歴史> ・BC4世紀頃:ケルト人 ・BC52年頃:ガリア・・・カエサルのガリア征服・・ローマ帝国〜476年 ・534年頃〜:フランク王国 ・1032年頃〜:ブルクント王国 ・12〜14世紀〜:サヴォワ(サヴォイア)領 ・1792-93年〜:サヴォワはナポレオン軍により、フランスの占領地に。 ・1815年(ウィーン会議)-1848年(憲法):ナポレオン失脚後、スイス・ヴァリス州はスイスに加盟する。 ・1860年:サルデーニャ王はサヴォワ地方、ニース地方をフランスに割譲 (・・・想定:この頃スイス国境の分割が行われたのでは?) (・・・想定:サヴォワを分割し、フランス/スイスの選択時、住民投票などで決定したのでは?) ・1967-75年:Emossonエモッソンダムはフランス・スイスの共同で建設された。湖はスイスにあるが、アーチダムの堤防はフランス国境。 発電設備はフランス側=Chatelard-Vallorcine、スイス側=La-Batiazにある。 <参考> ・他の国境の入り組んだ地も参考に ・http://train.mt.blanc.free.fr/histo/siecle.html【1907.11.1Montetsトンネル開通 】 ☆Emossonエモッソン湖【ダム湖周辺へのハイキングコースなど】 |
【DauphineとMARsat Saluces公爵領の境にトンネル。紫色はサヴォワ領】 |
●Barcelonetteバルスロネットの概略歴史・1231年、神聖ローマ帝国・プロヴァンス伯 Ramon Berenguer IV の城砦都市として創建される。・1388年からはサヴォワ伯の支配地となった。 ・1713年のユトレヒト条約(スペイン王位継承戦争の一連の講和条約)で、フランス領となる。 ・1814年から1955年にかけて、バルスロンネットや周囲のUbayeの谷の住人は、メキシコに移住し、メキシコとバルスロンネットの間で主に繊維事業を設立。 ・成功した彼ら家族の一部は帰国し「バルスロネット人といわれる」、町の近郊に大邸宅を建てて住んでいる。 ・今でもメキシコのMonterrey, Mexico City , San Luis Potosi , Pueblaにはその子孫が多数住み、友好関係を続けている。 ○http://www.beyond.fr/【Barcelonnette-provence-france】 ○http://en.wikipedia.org/【wiki/Barcelonnette】 ○http://www.barcelonnette.fr/【Barcelonnetteガイド。サンピエールリンク教会の説明】 ●Jacques-Antoine Manuelジャック=アントワーヌマヌエル(1775〜1827年)・バルスロネット郊外の、La Conchette, Enchastrayes出身・17歳で軍に入隊、すぐに将校になり、ナポレオンボナパルトのイタリア・Arcoleアルコル橋の戦い(1796.11.15-17)で負傷し、軍歴を終了。以降弁護士・国会議員になる。 ・1823年、フランスのスペイン遠征に反対し下院から追放された。 ・バルスロネットの広場に肖像がある。 ○http://en.wikipedia.org/【wiki/Jacques-Antoine_Manuelバルスロネット出身】 |
●このLarche:ラルシュ、フランスイタリア国境周辺の領地・領土・戦いの変遷を調べてみました。(西側:東側で記述) <アルプスをはさんだ西東は、激しく領地争いが絶えません。 その主要街道・峠のラルシュの村の歴史は、まさに戦いの歴史だったように見えます。> ・〜BC600年頃:リグリア人の領地 ・BC400年頃:ケルト人の領地・・・ケルト人が南下 ・BC218年頃:ガリア(ゴール)人とケルト人(ゴール人の祖先といわれる)の境界・・・ハンニバルのアルプス越え ・〜BC121年頃:カルタゴとローマの戦い:ポエニ戦争・・・→ローマに併合 ・BC31年頃:ローマ帝国:帝国属州と元老院属州との境界・・・ユリウス・カエサル時代 ・300年頃:ディオクレティアヌスのガリア管区とイリュリア管区の境界・・・ローマ帝国の再編 ・450年頃:ブルグント王国と東ゴート王国との境界・・・ゲルマン民族の大移動 ・540年頃:フランク帝国とダルマティアとの境界・・・ユスティニアヌスの再征服 ・814年頃:カール大帝(フランク王国)・・・遠征と領土拡大でキリスト教帝国を ・910年頃:東フランク王国(低地ブルグント、高地ブルグント)とイタリア王国の境界・・・イスラム勢力との戦い ・1152年頃:ブルグント王国とイタリア王国の境界 ・1200年頃:神聖ローマ帝国・・・十字軍の聖地解放 ・1250年頃:ビザンツ帝国・・・コンスタンティノープル占領 ・1600年頃:フランス:サヴォワ公国:モデルナ:ミラノ公国の境界・・・フランスの領土拡大/宗教改革/ハプスブルク帝国 ・1790年頃:フランス:サヴォワ:サルデーニャ王国の境界・・・フランス革命 ・1812年頃:ナポレオン帝国・・・ナポレオンによる領土拡大 ・1815年頃:フランスとサルデーニャ王国の境界・・・ウィーン会議 ・〜1860年頃:フランス:サヴォワ:サルデーニャ王国の境界・・・イタリア統一 ・1914年頃:フランスとイタリアの境界・・・第一次世界大戦/民主主義体制とファシズム体制 ・1940年:フランス・ヴィシー政権(フランス親独)とイタリア(ドイツ軍管轄)の境界・・・第二次世界大戦 ・1945年:フランスとイタリアの境界 ・・・1949年:NATO加盟/1995年ECヨーロッパ共同体加盟/2001年ユーロ通貨統合流通 −−−−−−−−−−−−− ●第二次世界大戦とフランス南東部・イタリア北西部=国境周辺の状況 <ドイツの占領下、フランス・イタリアともレジスタンス活動が展開され、国境周辺に残ったドイツ軍との間で 大戦の終結直前まで激しい戦闘が続いた模様です。 それが村役場の壁にある・・・1945.4.22-25の戦闘の記念プレートなのでしょう。> ・1939年9月 1日:ドイツがポーランドに侵入すると、イタリアも参戦を決定。 ・1940年5月10日:ドイツがオランダ・ベルギー(西部戦線)〜フランスに侵攻。 英仏の抵抗は弱く翌6月にはフランスは降伏・休戦協定。 フランス北西部はドイツの占領下に、中部・南部は親独のヴィッシー政権(ペタン元帥)が統治。 ・1940年6月18日:ド・ゴールの呼びかけでレジスタンス(抵抗運動)の展開。 自由フランス軍が組織、連合軍側について戦闘参加。 ・1942年:フランス全土はドイツ軍の占領下に。 ・1943年7月:連合軍がシチリアに上陸 ・ 7月25日:ムッソリーニは首相を解任され逮捕(ローマ東方の山地の山荘に監禁)。 ・ 7月26日:Duccio Galimbertiがクーネオで対ファシスト抵抗の演説。 ・ 9月8日:ムッソリーニ後任のピエトロ・バドリオ首相は無条件降伏。イタリア政府(南イタリア)は連合側に。 ・ 9月12日:ドイツ軍は特殊部隊がムッソリーニを救出。 ・ 9月23日:ドイツはファシスト政権かいらいのイタリア社会共和国をサローに樹立 ・ 10月頃:イタリア北部はドイツ軍の管轄におかれ、戦闘が繰り返される。 北イタリア各地で、パルチザンによるレジスタンス運動が展開される。 (Colle de Jouxジュー峠、 Pont Saint Martinポン・サン・マルタン、 Cuorgneクオルニェ) ・1944年夏:イタリア北部のドイツ軍はポー川沿いに防衛線(ゴシック線)を築き戦闘。 ・1944年6月 6日:連合軍のノルマンディ上陸。8月プロヴァンス上陸。8月25日パリ開放。 (Lisリス峠(1311m)は1944.7.2まで) ・1945年3月末〜:フランス山岳師団はプティ・サンベルナール峠、イズラン峠、モンスニ峠でドイツ軍を撃破。 ・ 4月10日〜:ラルシュ峠、ロンバルデ峠も含み激戦。(7日後に峠奪取) ・ 4月22-25日:このラルシュ村での激しい戦い ・ 4月25日:連合軍によってミラノ開放。イタリア全土で戦闘が終結(フランス国境はドイツ軍が残存)。 ・ 4月28日:アルプス派遣隊(連合軍)、国境の北・中・南の峠から総攻撃・進撃。アオスタ・トリノ・インペリア占領 ・ 4月28日:ムッソリーニ逮捕・処刑 ・ 4月30日:ヒトラー自殺。 ・ 5月 2日:アルプス地区のドイツイタリア軍部隊、降伏 ・ 5月 8日ドイツ軍無条件降伏。 (参考資料:『ヨーロッパ大陸歴史地図(東洋書林)』、『フランス開放戦争史(柏木明:原書房)』など) |
【13-16Cのサヴィワ王国の歴史地図:クリックで拡大】 |
【薄茶色+薄緑色+黄色エリア:1388年以降サヴォワ王国領(1720〜サルディーニャ王国領)。 ⇒薄茶色エリア:1860年フランスに割譲。 ⇒薄緑色エリア:第二次大戦後の1947年フランス領になる。 by wikipedia・・・・2007年の紀行:<ニース付近の支配関係・歴史>参照】 |
【薄茶色+薄緑色+黄色エリア:1388年以降サヴォワ王国領(1720〜サルディーニャ王国領)。⇒薄茶色エリア:1860年フランスに割譲。⇒薄緑色エリア:第二次大戦後の1947年フランス領になる。by wikipedia】 |
・下に示したサヴォイア家(サヴォイア伯〜公〜王〜サルディーニャ王)の歴史地図を見て判るように、建国の1000年頃は内陸の領地のみでした。 ・1388年、英仏百年戦争参戦の功績でニース地方を獲得し、地中海への接点を持ちますが、その後もジェノヴァ共和国が海岸線を押さえていたため、ニースが唯一の海との交易ルートだったのです。 ・この塩の道の交易量は年間5000トン以上にもなり、18世紀末にはニースで1万8千頭、クネオで1万6千頭のラバが使役に用いられていました。また塩の帰りの荷は、ピエモンテの米や大麻、布などでした。 ・ナポレオン1世失脚の1814年にジェノヴァを獲得し、トリノからジェノヴァの交易ルートが出来るまで、この「ニース〜トンデ峠〜ピエモンテ/トリノ」の塩の道は、サヴォイアにとって命のルートだったわけです。 ・1859年、ナポレオン3世のイタリア独立戦争援助で、サルデーニャ王国からニースとサヴォワ地域がフランスに割譲され、峠を越える塩の交易は寂れたのです。
<関連紀行ページ> ・Chamberyシャンベリー【サヴォワ王国1232年〜1562年の330年間の首都】 ・1814年ナポレオン1世失脚、1859年ナポレオン3世が、イタリア独立戦争援助でサルデーニャ王国からサヴォワとニースを獲得 <塩の道の紀行ページ> ・ニースから、Route du Sel/Salt Road/塩の道を北上 ・ソスペル【Le Pont Vieux古橋は、ニース〜ピエモンテ間の塩街道の橋で、税を徴収。ニース地域の支配関係・歴史年表】 ・タンド峠 ・Royaロワイヤ渓谷〜サオルジュSaorge〜タンドTende(仏)/テンダTenda(伊) −−−−−−−− <塩の道関連サイト> ○http://www.beyond.fr/【Route de Sel詳細な解説】 ○http://amontcev.free.fr/【La route du sel:ニースからピエモンテへ】 |
| +―●フランソワ2世―――――――――+ | | [1478-1513] | +―●フランソワ1世――――――+ ロングヴィル公 | | [1447-1491] | 配:フランソワーズ・ダランソン | | デュノワ・ロングヴィル伯 |+―――――――――――――――――+ | 配:アニェス・ド・サヴォア|| +―カトリーヌ |+―ルネ [1449-1501] || [1508-1515] 配:ルシ伯ジャン |+―ジャック | [1511-1512] +―●ルイ1世――――――――――――+ | [1480-1516] | | ロングヴィル公 | | 配:ジャンヌ・ド・ホッホベルク | +―ジャン | [1492-1533] | *********************** フリードリヒ4世 (チロル公) ティロル公フリードリヒ4世(1383(1382)?-1439,6,24) ************************
[ヨーロッパ アルプス 峠ドライブ・写真・絵本] [峠マルチ索引] [1位- 10- 20- 30- 40- 50- 60- 70- 80- 90位- 1000m未満 歴史/登山峠 トンネル] [街道] [大分水嶺] [山岳鉄道] [世界遺産] [国立公園] [アルプスと歴史] [解説] [LINK/FAQ/情報提供]/ [フランス]/
|
|