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【ヨーロッパ・アルプスのハイキング地図】 【国別地図】 【日本語ガイド本】 |
モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山にも二つの名前(読み方)があります。 フランスは、Monte Viso(Mont viso):モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山 日本語の読みは、ウェインパー『アルプス登攀記』:浦松佐美太郎訳、ギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳、小野有五さん・・月刊『地理』に執筆の山の名 から「モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山」を使っています。 イタリアは、Monviso:モン・ヴィーゾ山 日本語の読みは、イタリア観光局のサイト、イタリア在住の日本人の掲示板 によります。 −−− モン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)は左右二つの頂きが見えます。 左側:Viso - Punta Trieste 3841m・・・頂上 右側:Viso di Vallanta 3781m・・・モンヴィーゾの煙突と呼ばれている。 参考URL: Agnelアニュエル峠時からの眺め http://perso.wanadoo.fr/anne-claire/pages/viso.htm 地図・ルート(L'itineraire)、南からの写真(cimes Trieste et Nizza du Viso.) http://members.aol.com/juergenbrenneis/montviso.htm 約8km西のLe Pain de Sucre(3208m)からの写真 |
●「ハンニバルと象」がこの地(推定)を進軍した状況など−− ポリビオス(BC200-BC118)の記述による。「」は推定の地名 −−●前のポイント「Belvedere-du-Viso1」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】 →【Col de la Traversette トラヴェルセッテ峠に・・フランス側からの挑戦】 →●次のポイント「Traversette峠を下る(想定)」
約4カ月半前、スペインを出たカルタゴ軍は、ギル川の源流まで来た。この先の峠道路の工作の間、この地で休養する。 しかし軍の食糧は底をつき、荷役動物や疲労しきった軍馬などを食べて飢餓をしのいでいた。また、時々雪、朝夕の凍る寒さをしのぐテント・衣類なども失っていて、軍の士気も衰えていた。 実はハンニバルのもとに、前方の道路工作隊から・・・峠のイタリア側下り斜面はあまりにも厳しく、象・荷車を含む全軍を通過させることは無理だ、との報告があった。 <この地のハンニバル軍>
朝9時の指示の時間に合わせて・・・前年の残雪が所々に残り、さらに今年の雪も降り積もった峠道。登ってくる隊長達の、革布で覆った足元も、昨夜の雪で冷たく滑りやすい。朝日がようやくフランス側の山肌を射しはじめる。 500人を越える全部隊の指揮官達がこの平坦地に集まる。ハンニバルはその先の高い岩の上にいる。
ハンニバルは彼らを、その集結地から峠の頂上に連れて行く。 ・・・・・・・・・・ 峠の稜線に立つと、眼下にポー川の源流、イタリアに下る渓谷、そしてイタリア・ピエモンテ平野全体を越えて、遠くミラノ方面から、ジェノヴァの丘陵地まで見渡せた。 ハンニバルは彼らを奮起させ、この険しい崖を下山させるため、大声で演説をする。 ・・・イタリアの遠景を指差しながら、 「今や試練も終わりに近づいている」と説明し、「ローマを守っていたアルプスをすでに制覇した。この先のすべては、我らカルタゴ軍のものだ」と保障した。 そして・・・翌朝、全軍で下る・・・と。 アルプスの登り道から11日目。イタリア国境の峠越えまで残り4日。 軍の規模は、歩兵2.9万人、騎兵6千9百、象20頭。 ●前のポイント「Belvedere-du-Viso1」← 【●ハンニバルの有力推定ルート】 →●次のポイント「Traversette峠を下る(想定)」 −−−− <このトラヴェルセッテ峠のイタリア側下りの状況は、今回の旅では推測できません。 ・・・で、 Agnelアニュエル峠(ハンニバルの越えた可能性がある峠)、ならびに Clapierクラピエ峠(越えた可能性・有力度、第二位の峠)などを見ていきましょう・・・・> ・・・皆さんの想定、推測情報などありましたらお願いします 参考資料: この記載情報はポリビオス(BC200-118)の記述による。これをもとにルートを推定・解説している本は以下のものである。 ・Gavin de Beerギャヴィン・デ・ビーア 『ALPS and ELEPHANTSハンニバルの象』時任生子訳:博品社(G-page) ・John Prevasジョン・プレヴァス『HANNIBAL CROSSES THE ALPS ハンニバル アルプス越えの謎を解く』村上温夫訳:白水社(J-page) ・Hans Baumannハンス・バウマン『ハンニバルの象つかい』大塚勇三訳:岩波書房:(H-page) ・The Green Guide:『French Alps』2001 Michelin:(M-page) |
【濃い緑実線+点線:Guilギル川〜Belvedere du Visoヴィーゾ大見晴台〜Traversetteトラヴェルセッテ峠を経て、ポー川源流のルート 黄色のルート:Agnelアニュエル峠の自動車道路・・・クリックで拡大します】 |
●Traversetteトラヴェルセッテ峠のトンネルについて● この峠の下に、トラヴェルセッテのトンネルがあります。 いろいろのサイト情報では・・ 峠=海抜2950m(2947m)、トンネルBuco di Viso=海抜2882m(現地の案内板)です。 峠頂上の68m下にトンネルがあるわけです。 トンネルの長さは、ほぼ100m、1480年開通し、以降、フランス:モン・ドーフィネとイタリア:ポー地域の重要な通商路となったようです。 20世紀の大戦で、両国はこのトンネルの入り口を閉鎖しました。 現在、このトンネルは両国側に鍵がかけられており、一部ツアーのみが鍵を開けて通過できるようです。 −−−−−−−−− 峠の真下のトンネルは、ガリビエ(ガリビエール)峠などにもあります。 峠前後の傾斜は厳しく、登山道路としての整備も難しく、特に冬や雨時期の整備が大変なことからトンネルを作ったのだろうと想定できます。 しかし、1480年という中世の時代に開通ということに興味を持ちます。 どんな時代に、このトンネルはできたのでしょうか?・・・資料整理中ですが・・・ ●アルプスの西側はドフィーネDauphine地域で、1349年にフランスに売却されている。(ヴィエンヌのドフィーネ公は、1349年世襲領地と称号をフランス王に売り渡した) ・・ 東側の北はサヴォイ公国、東側南はサルッツオSaluzzox地域(1494年時点)。 峠の場所は、サルッツオSaluzzo地域に属していた。 ●ドフィーネ・エリア[当時フランス・ルイ11世(在1461-83)]、サルッツオ・エリア[当時神聖ローマ帝国・サルッツオ侯領]との交易のため作られたトンネルと想定されます。 ・・・フリードリヒ4世(?神聖ローマ皇帝・フリードリヒ3世:在1440-93では?)がサルッツオ侯爵に、工事遂行の勅許証を授けた・・・ ・・・サルッツオSaluzzo地域は、長くサヴォワ領に周囲を囲まれていた。1720年頃にやっとサヴォア王領になっている・・・地図参照 ポー川の源流から、ギル川の源流を結ぶこのルート、かなり昔から・・・ハンニバルの時代でも・・・有力な交易ルートだったようにも思えるのです。 |
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