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Traversette -Col de la/Buco di Viso/Monte_Viso_tunnel
(⇒トラヴェルセッテ峠 トレッキング・ガイド)
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No.:総合順位 (-N:追加) |
登山トンネルt000-5 ★峠情報はこちら |
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Hight(m):標高 | 2882m | Alpenpasse:峠名 Valley/Tal:谷名・地名 |
Traversette -Col de la/Buco di Viso/Monte_Viso_tunnel トラヴェルセッテ峠トンネル |
Country:国>県>谷> | Fr/It:フランス/イタリア国境 | Route-no, Place:場所 (Motorway=高速:Tunnel=トンネル) (Map-page-address:*1) |
●大分水嶺(東=Poポー川源流〜(地中海:Adriaアドリア)。西=Guill〜Durance〜Rhoneロ−ヌ川〜(地中海) ・Mt.Visoモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山(3841m)の北5km ・Col de Agnelアグネル峠の約7km東北東 ・バルスロネッテ東 (75-ha80)
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Closed/Maximum grade(%)/etc : 道路閉鎖時期/勾配/条件 |
●このトンネルの上にある「トラベルセッテ峠」が、BC218年(2200年以上前)、ハンニバルが象と越えた「最有力候補の峠」である。
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【緑色点線:アルプスの分水嶺で国境。水色:Saluces公爵領と、白色:その西側Dauphineとの境にトンネルが作られた。紫色:周囲はサヴォワ領】 |
【Humbert_II:Viennois】 |
【Philip_VI:France】 |
【Ludovico_II:Saluzzo】 |
【Ludovico_II:Saluzzoと妻Margheritaのコイン】 |
【フリードリヒ3世:神聖ローマ帝国】 |
【ルイ11世:France】 |
<肖像画> ロドヴィコII世(広い/深い:ヴァスト)、サルッツォ侯爵 彼がこの仕事を依頼した |
●参考:<Florinsフローリン金貨とは> ・フローリン金貨(fiorino d’oro)は、イタリアで1252年から1523年まで鋳造された金貨。 ・品質がよくデザインや金属の標準含有量にほとんど変化がなく、その後の西欧各国の模範になった。 ○http://ja.wikipedia.org/wiki/フローリン金貨> |
●参考:<Ludovico IIの亡命> ・Ludovico IIは、フランスの助けで、1486年にサヴォイア公爵による活発な攻囲に抵抗しましたが、 1487年に「L'art de la chevalerie sous Vegece (The art of chivalry under Vegetius):ウェゲティウスの下の騎士道の芸術」(1488)を書き、フランスに亡命した。Wiki 【騎士道が彼の生きざま、だったのかもしれない】 ○http://www.mediterranee-antique.fr/【HISTOIRE D'ANNIBALハンニバルの歴史とサルツォの関連】 ○http://en.wikipedia.org/【Chivalry騎士道】 ○http://www.thearma.org/【Pellの歴史と騎士道】
・Lodovico IIルードヴィコ2世(在1475-1503)は、1487-1490の間フランスに亡命していた。その間「サルッツォ侯爵」は、Carlo_I_di_Savoiaサボイアのチャールズ1世であった。チャールズ1世の死後、ルードヴィコ2世が侯爵に返り咲いた。 −−− http://it.wikipedia.org/wiki/Carlo_I_di_Savoia【Carlo_I_di_Savoiaサボイアのチャールズ1世】 ・彼は長い間良好な関係でなかったサルッツォ侯爵に宣戦布告し、1487年、軍隊を率いて、小侯爵の主要都市の一つであるカルマニョーラを占領した。 ・最終的にはサルッツォ侯国の首都サルッツォを包囲し、侯爵ルドヴィコIIは降伏し、サヴォイの若い公爵に敬意を払うことを余儀なくされた。そして短い期間ではあったが、サヴォイ領主の所有物にした。 ・彼はsaluzzesiとの戦争に勝利、帰国し、他のゲストと一緒に宴会の後に、病気になり亡くなった。 ・これはサルッツォのルドヴィコIIが毒殺したと噂され、若い公爵の死を引き起こしたと告発された。 ・サボイのチャールズ1世が死亡し、カリニャーノのaugustiniansは教会に埋葬されたということだけで、真実はわかっていない。 |
【シャルル8世(在1483-1498) :フランス王】 |
【ルイ12世:フランス王】 |
【フランツI世:フランス王】 |
【カール5世 :神聖ローマ皇帝】 |
フランス・Henri IVアンリ4世(在1589-1610)の時、サヴォイア公国との戦いで、1601年のリヨン条約で領地交換が行われ、この地はフランスからサヴォイアに譲渡された。 |
・「月夜の晩に、ふところに真理(「新科学対話」の原稿のこと)を入れて国境の峠を越えるときはくれぐれも気をつけなさい。」の名セリフがある。 『ガリレイの生涯』ベルトルト・ブレヒト 著 岩波文庫 |
●参考:<イタリアとフランスの当局は、戦時のことを考え、また密輸者がとおれないようにと、わざと破壊してそのままにしているのだ。> 『HANNIBAL CROSSES THE ALPSハンニバル アルプス越えの謎を解く』John Prevas ジョン・プレヴァス著 村上温夫訳 白水社 p183 ●参考:<フランス側のAbriesアブリエス村の人口は、1810-20年頃2000人ほどのピークを記録している。> <Abriesアブリエス(仏) ●参考:<歴史的に、フランス側のケーラス地域のたくさんの人が、南米に移住したとのことです。かつてはかなりの人口があり、イタリアのポー川流域と、このDauphineドフィーネ地域との間で、塩を中心とした物資の行き来が多かったようです。> しかし他の便利な峠ルートの開発や、戦争で峠道の閉鎖などもあり人口は急減、南米移住などを余儀なくされたのです。そして今は、農業、山岳リゾート産業などのわずかの人が住むだけになった。紀行 ●参考:<1861年8月、ウィンパーがモンテヴィーゾの初登攀を目指してフランス:ル・シャルプの村に来て、村の司祭に追い出された。> 理由は「ピエモンテの兵隊たちが軍隊生活に飽きてしまうと、ラ・トラベルセットの峠を越えて、よくこの谷へ逃げこんで来た。そして彼らをかくまったために問題が起こったから」・・紀行 |
1907年トンネル再開時のフランス側の式典 |
●参考:<第二次大戦中は閉鎖> ・20世紀の大戦で、イタリアとフランスはこのトンネルの入り口を閉鎖した。 ・この峠は、フランスとイタリアの間の通行不許可の国境で・・ ・そこは「発砲される恐れ」さえあった・・ 『HANNIBAL CROSSES THE ALPSハンニバル アルプス越えの謎を解く』John Prevas ジョン・プレヴァス著 村上温夫訳 白水社 p177 ・このトンネルは両国側に鍵がかけられており、一部ツアーのみが鍵を開けて通過できるようです。・・このような時期もあったようです。 |
【トンネルのイタリア側入口】 【トンネルのフランス側入口】 【トンネルの断面図】 |
●参考:<「Tenda tunnelテンダ(タンド)・トンネル」は、「1450年にトンネル建設を始めたが、完成することはなかった」> ・約80km南東にあるTenda tunnelテンダ(タンド)・トンネルは、「1450年にトンネル建設を始めたが、完成することはなかった」との情報があります。 トラヴェルセッテ・トンネル開通より30年も前。当時テンダ峠の両側はサヴォワ公国でしたから、神聖ローマ皇帝の許可は不要だったのでしょう。 しかし、サルッツオ公爵は隣国のトンネル工事開始も、皇帝許諾のための材料に使ったと推測できます。 |
●EU-Alps 峠の茶屋: 掲示板:問合せなども |
●旅のGET: |
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