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Traversette -Col de la/Buco di Viso/Monte_Viso_tunnel
トラヴェルセッテ峠トンネル情報

(⇒トラヴェルセッテ峠 トレッキング・ガイド)

No.:総合順位
  (-N:追加)
登山トンネルt000-5
峠情報はこちら


Hight(m):標高 2882m
Alpenpasse:峠名
Valley/Tal:谷名・地名
Traversette -Col de la/Buco di Viso/Monte_Viso_tunnel
トラヴェルセッテ峠トンネル
Country:国>県>谷> Fr/It:フランス/イタリア国境
Route-no,
Place:場所
(Motorway=高速:Tunnel=トンネル)
(Map-page-address:*1)
●大分水嶺(東=Poポー川源流〜(地中海:Adriaアドリア)。西=Guill〜Durance〜Rhoneロ−ヌ川〜(地中海)
・Mt.Visoモン・ヴィーゾ(モンテ・ヴィーゾ)山(3841m)の北5km
・Col de Agnelアグネル峠の約7km東北東
・バルスロネッテ東

(75-ha80)
Montgenevre、(Roche Ecroulee)
−(Pian del Re)
IzoardVars
Agnel
Closed/Maximum grade(%)/etc :
道路閉鎖時期/勾配/条件

●このトンネルの上にある「トラベルセッテ峠」が、BC218年(2200年以上前)、ハンニバルが象と越えた「最有力候補の峠」である。
峠の情報はこちら=登山のみの峠


ハンニバルと象の詳細はこちら参照 (Googleマップでルート確認

・2万人のアフリカ・スペイン歩兵、6千人の騎兵、象17頭が峠を越えた(1.8万の歩兵、2千人の騎兵、象22頭を失ったと想定される)

・自動車トンネル建設の希望は地元にはある。

●トラヴェルセッテ峠のトンネル詳細情報:
<★峠情報><★サルッツォ紀行
(海抜2882m:Buco di Viso(イタリア語)/Monte_Viso_tunnel(英語))


・モンヴィーゾトンネルは、トラヴェルセッテ峠の下(海抜2882m)に75mの長さで1480年に掘られた、アルプスで最初に開通したトンネルである。

−−−
<●開通時の時代背景>


【緑色点線:アルプスの分水嶺で国境。水色:Saluces公爵領と、白色:その西側Dauphineとの境にトンネルが作られた。紫色:周囲はサヴォワ領】
HumbertII
【Humbert_II:Viennois】
Philip VI
【Philip_VI:France】
・1349年、Vienneヴィエンヌのドフィーネ公(HumbertIIウンベール2世:(在1333-49:1355死)=神聖ローマ帝国側の諸侯)は、財政難と男子継承者不在の為、世襲領地と称号をフランス王(Philip VIフィリップ6世(在1328-50))に売り渡した。

・1449年:ヴィエンヌの大司教は、異議申立てをしたが1449年に屈服し、フランス王に領土を引き渡した。
 =トンネル建設の約30年前、峠の西側は神聖ローマ帝国領から、フランス王国領のドフィーネDauphine地域となっていた。




サルッツオ公爵ルードヴィコ2世
【Ludovico_II:Saluzzo】
・建設当時、峠の東側と南側エリアは神聖ローマ帝国側の、サルッツオSaluzzo公爵Ludovico IIルードヴィコ2世(在1475-1503)の領地。
 (峠の北側はサヴォイエ公国の領知)

・小国サルッツオSaluzzo地域は、ほとんどの周囲をサヴォワ王国領に囲まれ、西のフランスとの力を得たバランスで独立を保っていた。西のドフィーネ・エリアと、サルッツオ・エリアとの大きな交易のためには、アルプスのトンネルが必要であった。


Margherita di Foix-Candale
【Ludovico_II:Saluzzoと妻Margheritaのコイン】


フリードリヒ3世
【フリードリヒ3世:神聖ローマ帝国】
ルイ11世
【ルイ11世:France】
・トンネル建設は、峠西側のフランスはLouisXIルイ11世(在1461-83)の時代であり、ルイの主導でSaluzzoサルッツオ侯爵が建設との記録ある。(アブリエスのパンフから)

・峠東側の神聖ローマ帝国の皇帝FriedrichIIIフリードリヒ3世(在1452-93)も、サルッツオ侯爵に工事遂行の勅許証を授けた。

・1480年:モンヴィーゾトンネルは、トラヴェルセッテ峠の頂上(2950m)から68m下に、長さ75mのトンネル(海抜2882m)で、1478年から始まり1480年に開通した。アルプスで最初に掘られたトンネル。

・1494-1525年:フランスの国王3人はこのトンネルを通過した。

・1525年:フランツI世(在1515-1547)と3千人の兵士も通過した。

<●ヴィゾの穴/Buco di Viso ヴィーゾトンネル/ヴィゾの穴 情報>

http://it.wikipedia.org/【Buco di Viso. From Wikipedia, the free encyclopedia】
(イタリア語)の概略訳に、他の情報を追加したものです。
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Buco di Viso(伊)/ Pertuis du Viso(仏)
イタリア側入口

フランス側入口

Tipe:pedestrian 歩行者専用
States:Italy /France 国境
Location場所:Monte Granero , Po valley , Piedmont場所: モンテグラネロ/ポー谷/ピエモンテ
Length長さ:0075 km
Altitude:2,882 m above sea level 海抜2882m
Number of tubes数:1
Diameter直径:about 2 m
Start of construction工事着工:1479
Opening開通:1480 年(1837, 1907, 1998)
Closure閉鎖:approximately from October to June およそ10月から6月まで

Mapa:Map of the tunnel 断面図

概要


ビソ・トンネル(別名トラベルセッテ・トンネル)(仏語ではヴィーゾのPertuis、ピエモンテ語ではヴィゾのPertus)は、クリッソーロCrissoloとリストーラスRistolasの町を接続する、イタリアとフランスを結ぶ約75メートルの長さの岩に彫られたトンネルである。

それは歴史上、アルプストンネルの最初であることで知られている。また高い山に実現した土木工事の最も古い作品の一つです。

これはイタリア側はピエモンテ州クーネオ県の領土で、グラネロ山の斜面で、ポーの谷を分離する斜面の下で、フランス・ケラス地域との間で、海抜2882mの高度で、海抜2950mのTraversetteの丘(峠)より少し低いところにある。

Index
1 History 歴史
1.1 The origin of the project プロジェクトの起源
1.2 The increase in traffic 交通量の増加
1.3 The decline 衰退
1.4 The reopening 再開
2 Description 説明
2.1 Specifications 仕様
2.2 Construction technique 建設技術
3 Ascension to the Buco di Viso 登り方
4 Refuge CAI and CAF nearby CAI小屋 と CAF nearby
5 Notes
6 Bibliography
7 See also
8 External links

歴史


トンネル工事プロジェクトの起源



<肖像画> ロドヴィコII世(広い/深い:ヴァスト)、サルッツォ侯爵
彼がこの仕事を依頼した


この工事の実現は、その創設者、サルッツォルートヴィヒ2世(広い/深い:ヴァスト)(在1475-1503)侯爵の意志から生まれた。

彼はフランス王びいきであり、サボイアとは敵対的な政治姿勢をとった。

彼はフランス国王ルイ11世(在1461-1483)の家臣だった「ルネ・ダンジュー」(ナポリ王でプロヴァンス伯。1409-1480)との契約を締結した。

ビーソ・トンネルの目的は、困難なアルプスを通過しなければならない商人の運搬を容易にし、商用トラフィックを増加させることであった。(ラバに塩を積み峠を越える)

このため、通過が危険で困難なTraversette峠をバイパスでき、出荷ダメージが少ない、トンネルという案を作成した。

また、峠よりも低いところに構築されたトンネルを通過することで、降雪期に峠の通行不能な日数を減らすことになる。

ビーソトンネルは、サルッツォ侯爵の小さな領土を、プロヴァンスやドーフィネの大きな領域とをつなぐ必要な作業だった。

その建設のための契約はアルルで、1478年9月22日に認可され、トンネルの掘削は雪が溶ける1479年の夏に始まった。
このための工事は冬の間中断し、1480年の夏の終わりに完了した。

工事は、 AlbanoのMartinoと AlpeascoのBaldassarreの監督下で行われ、12,000フロリンの総費用がかかった。

●参考:<Florinsフローリン金貨とは>
・フローリン金貨(fiorino d’oro)は、イタリアで1252年から1523年まで鋳造された金貨。
・品質がよくデザインや金属の標準含有量にほとんど変化がなく、その後の西欧各国の模範になった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/フローリン金貨



交易量の増大

工事の完了後の1481年以降、商業物資の交通量が増加し、ビーソ・トンネルは、商品輸送の戦略的なルートとなった。
サルッツォ侯国からの輸出はワイン、米、麻、クルミ油があり、フランスからの輸入は主に織物、絹織物、馬など 。

サルッツォには海へのアクセスがなかったので、トンネルはAigues-Mortesエーグモルトの塩田からの塩の輸入が重要なものだった。 その結果、ビーソ・トンネルはすぐに、イタリア北部の他の多くの交易の通過点のように、最重要貿易ルートの重要な場所になった。
1482年には、Revelloレヴェッロ(サルッツォの西の町で峠との通過点)の税記録では、年間20,000袋以上の塩の交易が記録された。
さらに他の商品も増えた。

ビーソ・トンネルはまた、軍事的目的で使用された。

・1486年にはLodovico IIルードヴィコ2世(在1475-1503)自身が、フランスに脱出するためにこのトンネルを使用した。

●参考:<Ludovico IIの亡命>
・Ludovico IIは、フランスの助けで、1486年にサヴォイア公爵による活発な攻囲に抵抗しましたが、 1487年に「L'art de la chevalerie sous Vegece (The art of chivalry under Vegetius):ウェゲティウスの下の騎士道の芸術」(1488)を書き、フランスに亡命した。Wiki

【騎士道が彼の生きざま、だったのかもしれない】
http://www.mediterranee-antique.fr/【HISTOIRE D'ANNIBALハンニバルの歴史とサルツォの関連】
http://en.wikipedia.org/【Chivalry騎士道】
http://www.thearma.org/【Pellの歴史と騎士道】


カルロ1世:サヴォイア
【カルロ1世:サヴォイア】
●参考:<1487-1490の間「サルッツォ侯爵」は「Carlo_I_di_Savoiaサボイアのチャールズ1世」>
・Lodovico IIルードヴィコ2世(在1475-1503)は、1487-1490の間フランスに亡命していた。その間「サルッツォ侯爵」は、Carlo_I_di_Savoiaサボイアのチャールズ1世であった。チャールズ1世の死後、ルードヴィコ2世が侯爵に返り咲いた。

−−−
http://it.wikipedia.org/wiki/Carlo_I_di_Savoia【Carlo_I_di_Savoiaサボイアのチャールズ1世】

・彼は長い間良好な関係でなかったサルッツォ侯爵に宣戦布告し、1487年、軍隊を率いて、小侯爵の主要都市の一つであるカルマニョーラを占領した。

・最終的にはサルッツォ侯国の首都サルッツォを包囲し、侯爵ルドヴィコIIは降伏し、サヴォイの若い公爵に敬意を払うことを余儀なくされた。そして短い期間ではあったが、サヴォイ領主の所有物にした。

・彼はsaluzzesiとの戦争に勝利、帰国し、他のゲストと一緒に宴会の後に、病気になり亡くなった。

・これはサルッツォのルドヴィコIIが毒殺したと噂され、若い公爵の死を引き起こしたと告発された。
・サボイのチャールズ1世が死亡し、カリニャーノのaugustiniansは教会に埋葬されたということだけで、真実はわかっていない。




【シャルル8世(在1483-1498)
:フランス王】

・当時のフランス王はシャルル8世(在1483-1498)で、1494年に彼の軍隊と大砲がFornovoの戦いでサルッツォ侯爵の支援のためトンネル通過。

Louis XII :France
【ルイ12世:フランス王】
・1499年にはLouis XIIルイ12世(在1498-1515)も通過。

franz-1
【フランツI世:フランス王】
franz-1
【カール5世
:神聖ローマ皇帝】
・1525年には後継者Francois IフランツI世(在1515-1547)も、彼の3千人の軍隊とイタリアに進軍し、神聖ローマ皇帝Karl カールV世(在1519-1556)と戦った。
 これらの際、トンネルと峠道も、大砲などを運送できるよう拡大された。

franz-1
【アンリ4世:フランス王】
●参考:<しかしサルッツオは結局1548年、Gabrieleガブリエーレ(1537-1548)のとき、フランスに侵略併合され、国は消滅。

フランス・Henri IVアンリ4世(在1589-1610)の時、サヴォイア公国との戦いで、1601年のリヨン条約で領地交換が行われ、この地はフランスからサヴォイアに譲渡された。



衰退

1601年のリヨン条約(サルッツォ侯爵の条約)のあと、フランス側は、トンネルを補修し再開しようとしたが、サヴォイ側は閉鎖され、1907年ビーソ・トンネルの再開式典までの300年間、トンネルは閉鎖されていた。
サヴォイア公国が、サルッツォを併合し、ビーソ・トンネルが戦略的重要性を失ったからである。
サヴォイ公カルロ・エマヌエーレI(Duke Carlo Emanuele I of Savoy)の判断は、モンスニ峠とモンジュネヴル峠の商業交通の流れを損なうことを避けるためであった。

ガリレオ・ガリレイ
【ガリレオ・ガリレイ】
参考:<ガリレオ・ガリレイGalileo Galilei(1564-1642)がこのトンネルを通過した記録がある。>

・「月夜の晩に、ふところに真理(「新科学対話」の原稿のこと)を入れて国境の峠を越えるときはくれぐれも気をつけなさい。」の名セリフがある。
『ガリレイの生涯』ベルトルト・ブレヒト 著 岩波文庫


以降ビーソ・トンネルは閉じたままであった。
War of the Grand Alliance大同盟戦争(1688-1697)の政治・軍事的な理由のみならず、 フランス王国とサヴォイア公国も巻き込んだスペイン継承戦争(1701-1714)なども、トンネル・峠道の解凍や土砂崩れをひどくした。
この間、1781年のCrissoloからの要望書のように「開通は、公国内の通路だけでなく、全ピエモンテの便利な貿易上にも大きな利益となる」との再開のための要求も、いく度かあった。

それにもかかわらず、19世紀までトンネルでの通商は、事実上不可能だった 。
1837年頃、ポー谷住民の部分的な移動とフランスへの移住者の増加が見られただけだった。
トンネルは背に荷を乗せた動物の通行ができず、何箇所かは這って移動しなければならないなど、経済的に不利だった。

●参考:<イタリアとフランスの当局は、戦時のことを考え、また密輸者がとおれないようにと、わざと破壊してそのままにしているのだ。>
 『HANNIBAL CROSSES THE ALPSハンニバル アルプス越えの謎を解く』John Prevas ジョン・プレヴァス著 村上温夫訳 白水社 p183

●参考:<フランス側のAbriesアブリエス村の人口は、1810-20年頃2000人ほどのピークを記録している。>
Abriesアブリエス(仏)

●参考:<歴史的に、フランス側のケーラス地域のたくさんの人が、南米に移住したとのことです。かつてはかなりの人口があり、イタリアのポー川流域と、このDauphineドフィーネ地域との間で、塩を中心とした物資の行き来が多かったようです。>
 しかし他の便利な峠ルートの開発や、戦争で峠道の閉鎖などもあり人口は急減、南米移住などを余儀なくされたのです。そして今は、農業、山岳リゾート産業などのわずかの人が住むだけになった。紀行

●参考:<1861年8月、ウィンパーがモンテヴィーゾの初登攀を目指してフランス:ル・シャルプの村に来て、村の司祭に追い出された。>
理由は「ピエモンテの兵隊たちが軍隊生活に飽きてしまうと、ラ・トラベルセットの峠を越えて、よくこの谷へ逃げこんで来た。そして彼らをかくまったために問題が起こったから」・・紀行




1907年トンネル再開時のフランス側の式典

再開

ビーソトンネルは、イタリア政府からの資金調達と、ウバルドValbusaが議長を務めるトリノのCAIの寄与で、1907年8月25日に再開された。


●参考:<第二次大戦中は閉鎖>

・20世紀の大戦で、イタリアとフランスはこのトンネルの入り口を閉鎖した。

・この峠は、フランスとイタリアの間の通行不許可の国境で・・
・そこは「発砲される恐れ」さえあった・・
 『HANNIBAL CROSSES THE ALPSハンニバル アルプス越えの謎を解く』John Prevas ジョン・プレヴァス著 村上温夫訳 白水社 p177

・このトンネルは両国側に鍵がかけられており、一部ツアーのみが鍵を開けて通過できるようです。・・このような時期もあったようです。



・1998年秋には、ロータリークラブのサルッツォの石資金セクションからの援助で、再び石を除去するための作業が実施された。これにより、トンネルを通過することができるようになっている。

・冬と春は雪が入口を塞いでいるため、夏の間だけ通過できる。


説明


traversette-tunnel-Italy-Side
【トンネルのイタリア側入口】
traversette-tunnel-France-Side
【トンネルのフランス側入口】
buco-di-viso
【トンネルの断面図】

技術仕様

そこはGranero山のギザギザ稜線の斜面の80m下にあり、海抜2882mで東西方向に空いている。
トンネルは、もともとは長さ約100mで掘られたが、山側面の侵食で、現在は約75mの長さである。
当時の記録では、トンネルを掘るために、鉄の道具、火、沸騰したお湯と酢が用いられたと記録されている。
掘削は主にshale chlorite anfibolici(頁岩緑泥石?)の岩の層の沿って行われたため、穴はわずかに湾曲、イタリアに向かって傾斜している。

内部は真っ暗で、だいたい高さ2.5m、幅2mである。これはラバが2頭通過するのに十分な大きさです。
通過は無料ですが、冬と春は雪が入口を塞いでいるため、夏の間だけ通過できます。トンネルを歩くには、トーチが必要で、保護のためのヘルメットを勧めます。内部は高湿度で、外側よりもかなり低温の空気で充たされている。

イタリア側の入口はフランス側よりも簡単ですが、夏の終わりまで、岩と雪の破片が妨害し、狭くなっている。
イタリア側へわずかに傾斜しており、雪解けで運ばれた残骸が頻繁に埋め立てられている。しかしフランス側の入口の雪シェードで最近は改善されている。

建設技術

工事の実施は技術的に極めて困難であった。
2882mもの高度で、積雪が年間約8カ月も存在していることを考慮する必要があります。
ですから作業は必ず夏にまとめて行う必要がありますが、さらに気象条件はかなり急激に悪化することがあります。
今日のトンネル工事での、爆発物による掘削は全く知られていなかったのです。また地形の正確な把握も同じように未知の技術でした。
トンネルの掘削は、片側からしか堀進めなかったので、早く作業を進めることは困難でした。
穴の中の作業場所が狭いことから、進歩にそって2から3人以上の労働者を、交互にトンネル内に入れるという、限られた条件化での作業です。

古くからの建設方法は、古代シリアのDiodorusディオドロスが記述したやりかたでした。
それは岩の壁に対して木材で火を燃やし、その炎で岩を「か焼」させる手順です。岩はそれにより次第に断片化し裂けるのです。
鉱夫はその後、沸騰水と酢の溶液を岩の大きな塊に投げつけます。これで岩がもろくなり亀裂ができたところを、ハンマーと鉄棒ピックで叩くのです。
そして少しづつ前進し、腕力作業を永遠と繰返す必要があります。

ビーソトンネルに登るには

ビーソトンネルへのルートは、ピアン・デル・レ(王の広場)海抜約2020mでポー川から離れ、Traversette峠につながるルートV16をたどる。
上昇はかなり大変である(標高差800m)が、斜面は非常に穏やかであり、トレッキングには、片道2-3時間かかる。

国境のイタリア側の少し山の手前、海抜約2700mのところに、ピアンメート島と呼ばれる岩の破片が大量にある場所に、イタリア国境警備隊の小兵舎跡があります。

ルートの全体的な難易度は、パロディ評価ではEとされます(簡単なハイキング)。/難易度:エキスパートハイカー

Shelters CAI and CAF nearby近隣の山小屋

Refuge Vitale Giacoletti - Po Valley
Rifugio Barbara - Val Pellice
Granero Refuge - Val Pellice
Refuge du Viso - Vallee du Guil
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●参考:<「Tenda tunnelテンダ(タンド)・トンネル」は、「1450年にトンネル建設を始めたが、完成することはなかった」>

・約80km南東にあるTenda tunnelテンダ(タンド)・トンネルは、「1450年にトンネル建設を始めたが、完成することはなかった」との情報があります。
 トラヴェルセッテ・トンネル開通より30年も前。当時テンダ峠の両側はサヴォワ公国でしたから、神聖ローマ皇帝の許可は不要だったのでしょう。
しかし、サルッツオ公爵は隣国のトンネル工事開始も、皇帝許諾のための材料に使ったと推測できます。


<関連サイト>
http://www.quotazero.com/【峠とトンネル通過の記録と写真】
http://www.snow-fr.com/【峠をトレッキングした写真など。トンネルの情報もある】
http://www.peplums.info/【映画「Hannibal, l'ennemi de Rome」(Richard Bedser, 2005年)の解説】
http://www.legart.it/【トンネル図説】
http://it.wikipedia.org/【wiki/Buco_di_Viso】


★紀行:未到達


(⇒トラヴェルセッテ峠 トレッキング・ガイド)

●【2007.6.14:イタリア側から・・峠の25分手前(海抜約2800m)で残雪多量のため断念:
 左の兵砦の上付近がトラヴェルセッテ峠。赤←マークがトンネルの位置。まだ雪で閉鎖中】
峠を見上げる


●【2007.6.19:フランス側から・・峠1.5時間手前(海抜約2440m)で、靴が壊れ断念。正面右端の岩山付近が峠】
峠を見る

EU-Alps 峠の茶屋:
掲示板:問合せなども
EU-ALPS.com
旅のGET:
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