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Vrsicヴェルシェッツ峠(1611m)
 スロベニア最標高の峠。北にサヴァ川、南にソチャ川の源流、大分水嶺です。【●峠のDBへ

 60年ほど前までは国境だったこの峠は、スロベニアの人が一度は登るというトリグラフ(トリグラウ)山への違法駐車が一杯。ヘミングウェイはこの地で負傷した? それは小説上の場所?
[北村 峠一].(eu-alps)      

 アルプスの眺めは、北側からがいいのです。同じアルプスでもスイスの方が、イタリアより喜ばれるのです。その違いは残雪だろうと思っていたのですが、この雪の残っていないスロベニア・ユリアンアルプスの眺めも、北側からの方がずっといいのです。太陽の作る岩山の明暗、逆光に輝く牧草地のコントラストが、この国で一番(と勝手に決めた)景色を際立たせています。

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【a5.jpg:クランスカ・ゴーラからのユリアンアルプス】
 クランスカ・ゴーラの町で、残ったスロベニア通貨を使い切るためガソリンを入れるつもりでしたが、次々と来る後ろからの車にせかされ、気がつくと小さな街並みはすぐに終わり、もう峠道です。

 町の標高が810m、峠が1611mと、800mの高さを約12kmで登っていく道はゆるやかだろうと思っていたのですが、峠直前までがなだらかな傾斜のせいで、最後はくねくねとカーブし急激に登っていくのです。木々の間から見える岩山は、目の前に覆いかぶさってくる感じです。

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【a5.jpg:小さな町はすぐ終わり、山道に入る】 【10.jpg:急ないくつものカーブ。のしかかってくるような白い岩山】

 Vrsicヴェルシェッツ峠(1611m)に到着です。【●峠のDBへ】 そしてここが、北にSava-Dolinkaサヴァ・ドリンカ川〜Savaサヴァ川〜Dunavドナウ川(黒海)、南にSocaソチャ川〜Isonzoイソンツォ川(地中海)の分水、アルプスの大分水嶺です。
<minakata_hさんから次の情報を貰いました>
2002年の夏、その峠を通過しました。町を南側に抜けてすぐ(a5.jpgの写真の場所から300mほど行って急な左カーブを過ぎた辺り)、エメラルドグリーンに輝く湖(池?)があってここからのアルプスの眺めもお薦めです。
 峠はハイキング客などで賑わってるのに駐車場が無かったですよね。車はわずかな路肩に横列駐車できるのみで駐車料金を徴収されました。駐車料金を支払う峠も稀だと思いますが・・・ ちゃんと印刷された駐車券を渡されましたので騙されたのでもないと思います。

 車を停め近くの岩山に登って周囲の眺めを撮影したいと思ったのですが、車が一杯で駐車するところがありません。皆この狭い道、路肩、斜面に車を押し込んで停めています。バスのような大型車が何台も止まっているところを見ると、団体のハイキング客でしょう。

 この峠からスロベニアで一番高いトリグラフ(トリグラウ)山(2864m)まで直線7kmほど、この国の人は一度は登るという山です。好天の日曜日、昨夜からまたは早朝からたくさんのハイカーがここから出発したのでしょう。しかたなく2重駐車してちょっと撮影しますが、あまり車を離れるわけにはいきません。

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【38.jpg:峠から東を見る。左(北)がクランスカ・ゴーラ方向、右(南)がSocaソチャ川方向】

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【94.jpg:西を見る。正面の看板は、トリグラフ(トリグラウ)山トレッキングのインフォメーション】


 この峠は60年ほど前までは国境、さらにこんな岩ばかりのところが第一次、第二次大戦の領土争いの後、イタリア、オーストリア、ユーゴスラヴィア間で幾度も国境を移動した場所なのです。ドイツ、フランスをはじめ世界中を巻き込んだ、無為な消耗戦だったような気もします。

<●イタリア・オーストリア・スロベニア国境の変遷と、アルプスの大分水嶺>

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【赤の網線が大分水嶺、茶色は国境。この差はどうやって?】

国境の変遷
【左=第一次大戦前、中=第一次後、右=第二次後】

 この峠はヨーロッパアルプスの大分水嶺なのですが、イタリア・オーストリア・スロベニアの国境線とずれています。

 アルプスの国境を見ると、大部分は大分水嶺と一致しているのですが、ここのように差のある場所には何らかの歴史があるようです。この地はどのような経緯があったのでしょう。図示してみます。

<変遷:左図>
・1919年までこの地は、オーストリア(ハプスブルク帝国)の領土でした。

<変遷:中図>
・第一次世界大戦の後(1920年)、敗戦したハプスブルク帝国は分割され、チェコ、ユーゴなどの新規独立国ができますが、同時にイタリアにも南チロルやトリエステ付近を大きく割譲しました。その国境はほぼ大分水嶺にそっていました。
(ただし、Tarvisioタルヴィジオ付近(青の円の箇所:古くからの教会や、豊かな森林がある場所)と、さらに西のDobbiacoドッピアーコ付近は、大分水嶺を越えてイタリアに割譲されました)

 イタリアが大戦に参戦した以下のような情勢が、有利な分割をさせたのです。
・開戦時イタリアはドイツ、オーストリアの同盟国でしたが、中立を宣言します。ドイツはイタリアがその中立を維持するなら、オーストリア領の南チロルとトリエステを提供すると言います。(オーストリアは激怒したが無力)
・一方の連合国(フランス・イギリス・ポーランド・ロシアなど)は、自陣営側に入り参戦すれば、さらに多くの領地(アドリア海対岸、トルコ東部)なども提供すると約束したのです。

<変遷:右図>
峠・国境・ダムが入り組んだ場所 【大分水嶺と国境が入り組んだ場所】

・第二次大戦後(1945年)、敗戦したイタリアはユーゴスラヴィアへ領地を割譲し、現在のスロベニア国境になったのです。(このとき、フランス国境のいくつかの激戦地も、フランス領になりました。)
・しかし、タルヴィジオ、ドッピアーコ付近はそのままで、ここだけがアルプスの大分水嶺を越えた側にあるイタリア領です。

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【55.jpg:Vrsic峠の看板。サイクリストは、峠制覇に情熱を燃やす。】
 次々と車や自転車が峠に到着し、僕たちの車にこすりそうなので、早々に退散、谷を南に下ります。峠のこちら側はほとんど車と行き違わない道、あの車のほとんどは北側から、その大部分はオーストリアや、イタリアからの登山客なのかもしれません。

 正面右のほう、イタリア国境の一部の山だけが雪で光っています。その山が特に高いわけでもないので不思議です。この連日の猛暑ですが、部分的な雷雨が雪になって北斜面に残っているかのように見えます。

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【b8.jpg:雪山、台形の山・・・イタリア国境の山か?Briceljk(2473m)などのもう少し手前の山か?】


 渓谷の谷底に下りてきました。両側が急激に削られた場所、アドリア海が近いせいか気温も温暖で、果実林もある豊かな谷です。ここがTrentaトレンタ渓谷、Socaソチャ川の源流の谷で、数日前近くを通過したTolminトルミンなどを経て、約100km先で地中海に注いでいるのです。農家も何軒か見えてきますが、ここはまだトリグラフ(トリグラウ)国立公園の中なので、あまり大掛かりに自然に手を入れない美しい景色が続きます。

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【c2.jpg:Trenta-Na-Loguや、Spodnja-TrentaなどTrentaの渓谷名の着く地名が続く】

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【d9.jpg:Socaの村名が川の名前に】 【f2.jpg:Socaの村から、Bovecに入り、またKorinica川に沿って上流に】

 ソチャ川に沿ってBovecボヴェックの町の手前まで下りて来ました。この町、さらに下流20kmのカポレットは、第一次大戦の「Caporettカポレットの戦い」の激戦地です。ドイツ・オーストリア軍の攻撃が、イタリア軍60万人の死者・捕虜を出し、大きく後退させた戦いでした。

 そしてあのヘミングウェイが、イタリア軍付赤十字要員として戦線にいて、脚に重傷を負ったのです。彼の作品『武器よさらば』では、1917.10〜11のカポレットの戦いで負傷したことになっていますが、実際には1918.7.8夜、ヴェネチアに近い川辺で兵士たちに菓子を配っているとき、砲弾の破片を受けたのだそうです。

●Caporettカポレットの戦い/イゾンツォ戦線(第一次大戦1917.10〜11)

 当初、アルプスの大分水嶺付近にあった戦線は、オーストリア9ケ師団と、ドイツ6ケ師団がカポレットを10.24から攻撃。さらにタリアメント川、ピアヴェ川方面に向かい、イタリア軍を大きく退却させた。イタリア軍の死者1万、戦傷者3万、捕虜29万、脱走者30万の計約60万人。独墺軍は戦死・戦傷2万3千人のみ。(トレンティーノ戦線も参考に)
 『世界歴史地図』学研出版  『第一次世界大戦』リデル・ハート著
★第一大戦:イタリア戦線に関連する以下の紀行も参考にしてください。
 ・「Tolminトルミン」
 ・「Boh.Sedloボヒニ・セドロ峠(1307m)」
 ・「Predilプレディル峠」
 ・「Plockenpas / Pso.di Mte.Croce Carnicoプレッケン/モンテ・クローチェ・ディ・カルニコ峠(数日後通過)
 ・「大・分水嶺・峠・国境・ダムが入り組んだ場所と歴史」
 ・「トレンティーノ戦線」【S.Angeloサン・アンジェロ峠】
 ・「Col di Lanaラーナ峠」
 ・「Monte Riteモンテ・リーテ(2183m)」
 ・「Zoppe di Cadoreゾッペ・ディ・カドーレ」【戦死者慰霊碑】
 ・「ヴェルバニアVerbania」【第一次世界大戦時のイタリア軍将軍の霊廟】

 ○「第一次世界大戦」第1次世界大戦開戦から100年(WSJ)【100年後の今も残る「遺産」】

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●Ernest Hemingwayアーネスト・ヘミングウェイ(1899‐1961)

 第一次大戦末期の1918年,志願して赤十字の救急車の運転手としてイタリア戦線へ。そこで従軍・負傷した経験から1929年『武器よさらば』が書かれた。
 実際に負傷したのは、1918.7.8。場所はイタリアのFossalta-di-Piaveフォッサルタ・ディ・ピアーヴェの川辺。(Piaveピアーヴェ川がアドリア海に流れ込む10kmほどの河辺。

<参考情報>
大塚さん:旧ユーゴだより:第42回配信『武器よ、さらば』【ヘミングウェイの肖像、実際の負傷の地(イタリアのピアーヴェ川)と、作品の舞台(スロベニアのSocaソチャ川、Kobaridコバリド/Caporettoカポレット)の関連などの解説】
betsumiyaさん:第一次大戦:カポレットー突破線
ダルマチア地方:ザラ:をめぐるイタリア、ユーゴスラヴィアのこと【世界飛び地領土研究会:「ベネチアの失地回復」をエサにイタリアの参戦を促した飛び地 】

<参考図書>
・『武器よさらば』ヘミングウェイ著、大久保康雄訳、新潮文庫1955.3
・『マイケル・ペイリンの ヘミングウェイ・アドベンチャー』マイケル・ペイリン著、月谷真紀訳、産業編集センター2001.4
・『第一次世界大戦』リデル・ハート著、中央公論社、(下p92-)カポレット
『世界歴史地図(Storia-Universale)』学研出版

<Soca川、Trenta渓谷付近のWeb-Site>
Bovec-Online【ボヴェック周辺の宿、食事、スポーツ、観光地・・】
Gornje Posocje【Gallery of pictures of river Soca:ソチャ川に沿った風景。地図をクリックで各地の写真を】
Monte Triglav mt.2863 ( Slovenia )【トリグラフ(トリグラウ)登山の写真】

<ボルヴェックの手前で右折、コリニカ川にそってスロベニア最後のプレディル峠を経てイタリアに抜けます・・・>
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