テーマ:●泣けば山からモコ来るぞ
「泣きやまないと、モーコ(蒙古人)が来るぞ」という子守歌がある。<今村さん情報>
⇒内容調査:
モンゴル帝国とその服属政権となった高麗王国によって二度に亘り行われた対日本侵攻を「元寇(ゲンコウ)/蒙古襲来/モンゴル襲来」と呼ぶ。 一度目=文永の役(1274年)、二度目=弘安の役(1281年)。主に九州北部が戦場(一部は中国地方の長門の浦にも来着)となり、二度とも台風の助けもあり日本が勝利、モンゴル帝国軍の撤退となった。 <wiki:元寇>
東北地方・佐渡には蒙古は襲来していないのに、口頭伝承では昭和40年代まで「なげばやまがら、モコくるぞ」=泣けば山から蒙古が来るぞ=といって、子守 の時に泣く子をあやしていたそうです。ここでいう「モコ」は鬼と同義語で、モコ(蒙古)は勿論「元」に派遣され た文永・弘安の役の元寇のことです。 <Yahoo 知恵袋>
宮古の子どもにとって怖いものといえば、モーコだった。
「泣ぎやまねぇどモーコが来っつぉ」「早ぐ寝んねぇば山がらモーコが来っつぉ」 <岩手県宮古市:三陸宮古のblog>
青森県木造町には「モッコの子守唄」という民謡が伝承しており、「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」と、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしている。
壱岐では「むくりこくり人形」が製作されていた。
『むくりこくり、鬼来るぞ』という脅し文句もある。むくりこくり=蒙古・高句麗。元寇の際の元軍・高麗軍の残虐行為を指すと一般に解釈されるが、一部には、元・高麗軍の兵士の水死体を指すという解釈も存在する。 <wiki:むくりこくり>
●Q1:モンゴルのポーランド侵略(1241年)が、現代に何か残っているか?
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ポーランド・Krakowクラクフでは、モンゴル侵攻の名残が「Lajkonikライコニク(祝祭のキャラクター)」 や「 Hejnal mariackiヘイナウ・マリャツキ(トランペット曲)」にある。
<ポーランド人情報2013.6.21>
★Lajkonikライコニク
(ホビー馬行列) クラクフ市のCorpus Christi聖体祭(移動祝祭日:ほぼ6月)の日曜日に行われる民俗遊び。
祭の主人公は、民族衣装を着、ひげを生やした騎手で、人工の馬をベルトに取り付け、伝統的な踊りをする。
ポーランドのモンゴル侵攻に関連し、クラクフがタタールを撃退し、その支配者の服を着て勝利の踊りをした・・喜びが起源とも言われる。 <wiki:Lajkonik>
(Google画像検索:Lajkonik)
(Google検索:Lajkonik youtube)
★Hejnal mariackiヘイナウ・マリャツキ(トランペット曲)
クラクフの塔の見張り兵がトランペットで敵の接近を伝えるが、モンゴル兵の矢で打たれ突然音が途絶えた。その警報で都市のゲートが閉鎖され、タタール人はこの街を落とす事ができなかった、との伝説がある。
現在もクラクフ市の聖メアリー教会の主塔から、トランペット(hejna?mariacki)を一日4回毎定時に鳴らしている。また毎日正午には、それがポーランドと世界にラジオで送信される。 <wiki:St._Mary's_Trumpet_Call>
(Google画像検索:Hejnal mariacki)
(Google検索:Hejnal mariacki youtube)
●Q2:類似の民間伝承などはないか?
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★ローマで、ハンニバルが門前に来るという子供のしつけ文句とも似ている。
『お行儀よくしなさい。そうしないとハンニ バルがきて さらっていってしまいます』
カルタゴの将軍 ハンニバル(Hannibal Barcaハンニバル・バルカ(BC247or246-BC183) は 古代ローマの最大最強の敵だったので、ローマの文化の重要なものとなった。ローマに対する脅威はあまりに も大きかった(BC218-211年ローマ包囲)ので、その恐怖心はながらくイタリアに残っていた。かつてはこの文句が悪童をしつけて矯正する手段とされており、今日においても同様である。
★秋田県に伝わる 「なまはげ」 が子供 たちに怠けず泣かずと警告する。なまはげ 柴灯(せど)まつりでは、村民が仮面 をかぶり、なまはげに扮する。また 「油取り」「隠れ婆」など子供を連れ去る 隠し神(神隠し)の存在が各地で語り継がれている。
★各国で、子供たちを躾ける ためと思われる「伝説上or民間伝承における 幽霊に類似した怪物「ブギーマン、Bogeyman、boogey monster」が存在する。
<wikiブーギマン>
−−以下参考−−
●「元寇(ゲンコウ)/蒙古襲来/モンゴル襲来」
[1274年]
兵約3-4万人が戦艦約900艘で韓国を出発。対馬と壱岐を制圧し10月20日九州・博多湾に上陸。日本軍(時の鎌倉幕府・北条時宗)との間に熾烈な戦いがあったが、幸いにも台風が来た。蒙古軍はパニックとなり撤退したが、約13500人が帰還できなかった。
[1281年]
東路軍(旧高麗軍が主力)約4-5万人・軍船900艘は、朝鮮半島合浦を出航、対馬と壱岐を制圧し一部は中国地方の長門の浦にも来着したと伝えられる。九州・博多湾に上陸しようとしたが、日本側は事前に高さ2.5-3m、幅2m以上、長さ約20kmの石築地(元寇防塁)を築いて準備してあったため、艦隊の一部は、6月6日陸繋島である志賀島に上陸占領。熾烈な3日間の戦いは日本の勝利で壱岐島へと後退、江南軍の到着を待った。
江南軍(旧南宋軍が主力)約10万人・軍船3500艘は寧波・定海等から出航、平戸島に上陸し、7月中〜下旬に東路軍と合流。
7月30日夜半台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。元寇の兵約14-15万人中、捕虜2-3万人、不帰還者は8万人以上。
神への助けを求め全国の寺院で祈りが行われた結果だったとして「元寇の神風」と呼んだ。