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●1797.4.9:クラーゲンフルトの戦いナポレオン軍がオーストリアに攻め入る。 『ナポレオン戦線従軍記』フランソワ・ヴィル・ルション著、瀧川好庸訳、中公文庫 ・・【p69:第29回戦闘。 ウディネ/フリウリ(イタリア)→(オーストリア)ポンテッバ3/23→3/27タルヴィジオの会戦→フィラッハ占領→4/9クラーゲンフルトの戦い→4/11フリーザッハ→4/17ノイマルクの戦い→4/18レオーベン城前→グラーツ】 |
●Maria Saalマリアザール=聖なる婦人 ・Noricumノリクム王国:現在のオーストリア・スロベニアの地に居住していたケルト人の王国で、12の部族で構成されていた。 ・Zollfeldの谷は、ケルトの部族が定住した以来、文化と政治の中心であった。 ・Virunumウィルヌム(ノリクム王国・王室の首都)の都市名は「Salaサラ」であると信られており、現在の「Maria Saalマリア・サール」の名前はおそらくそこから派生したものと言われる。 <○https://en.wikipedia.org/wiki/Virunum> ・BC15年、ノリクム王国はローマ帝国に破れ属州となった。 ・皇帝クラウディウスは、それまでMagdalensbergの山にあったケルト族の首都Virunumを、マリアザールの移し、州の首都として建立した。 ・Virunumは4世紀はじめには初期キリスト教の中心となり、アクイレイアの総司教の管轄下にあった。 <○http://wpedia.goo.ne.jp/> ・スラヴ系(南スラヴ系)人はカルパチア山脈とハンガリー平原よりも北の地域に住んでいたが、6世紀始めにアドリア海に向けて移動を開始。545-559年、イリリア州に侵入。592-602年ベネト地方まで進み、海岸地方を支配した。7世紀にはハルシュタット、ダハシュタインもスラブ人の支配下であった。 ・西に住んでいた部族は626-630年にカランタニア公国を樹立。部族長によって君主(大公Knez)を選んだが、その儀式はオーストリア・ケルンテン州のクルン城の「大公の石」の上で行われた。この後少し離れたゴスパ・スヴェータ=聖なる婦人の意味=現在のマリアザールの石の玉座に場所を移した。 ・新しい君主は、誰の奴隷でもない自由な人々の面前で農民の王冠をいただき、彼らの権利を擁護する誓いを立てた。 ・この象徴的な儀式は14世紀まで行われ、アメリカ独立宣言など現代にも重要な影響を与えた。 ・このカランタニア公国は当時フランク人の商人が、ボヘビア・モラビア(現チェコ)から、アルプスまでを支配していると書き残した「サモ帝国(625-659年)」の一部をなしていたと考えられる。 ・この後カランタニア人は、ハンガリー平原のアヴァール人と衝突を繰り返し、745年バイエルンに支援要請。このときキリスト教がもたらされ、最初の司教座がザルツブルクに置かれ教会を建てた。 本:『スロヴェニア』ジョルジュ・カステラン著:白水社p.20- |
●1797.4.11:フリーザッハの戦い ナポレオン軍がオーストリアに攻め入る。 『ナポレオン戦線従軍記』フランソワ・ヴィル・ルション著、瀧川好庸訳、中公文庫 ・・【p70:第30回戦闘。 ポンテッバ(イタリア)→(オーストリア)→3/27タルヴィジオの会戦→フィラッハ占領→4/9クラーゲンフルトの戦い→4/11フリーザッハ→4/17ノイマルクの戦い→4/18レオーベン城前→グラーツ】 |
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